植村文楽軒墓所

nao道

2014年07月14日 22:40

6月30日、愛染まつりにマイ嫁と向かう途中、松屋町筋から愛染坂に入る手前で、お寺の塀越しに「文楽翁…」という大きな文字が目に留まりました。とても大きな石碑でした。
すると今度はそのお寺、円成院の門の傍らに「植村文楽軒墓所」と刻まれた碑を見つけました。


ブンラク【文楽】(名)

操り人形浄瑠璃専門の劇場の名で、現在では文楽といえば、直ちに人形浄瑠璃そのものを称するようになっている。文楽座は、明和とも、天明の頃ともいわれるが、淡路仮屋の植村文楽軒が、南区高津橋南詰西の浜に高津新地の席という小屋を建てて興行したのがはじめで、文楽軒の芝居と呼ばれていたが、その後、文化八年博労町稲荷社内に転じ、さらに、天保十四年から北堀江市之側や道頓堀若太夫座で興行、安政元年西横堀御池橋東詰南の新地へ移り、同三年もとの稲荷社内に戻った。そして明治五年、松島新地の発展策として遊郭が開かれると共に、そこに移って、はじめて文楽座と称したのである。
同十七年、東区平野町の御霊神社内に移転したが、大正十五年十二月火災にかかり、昭和五年に、もと近松座の跡へ移り、さらに同三十一年に道頓堀の朝日座に本拠をかまえた。
文楽軒の二代は、大蔵という養子で、文楽の名を挙げた功労者。三代は、その子大助で早世、四代は大助の実子泰蔵が相続、明治四十二年に経営を松竹合名社に譲渡したが、昭和三十一年からは文楽協会が運営に当たっている。
-大阪ことば辞典(牧村史陽/講談社)

初世植村文楽軒の本名は正井与兵衛、墓石の下段に正井氏とあります。

植村文楽軒の他にもこのお寺には文楽関係者(竹本、豊竹、鶴澤と刻まれた墓石)のお墓がたくさんありました。文楽以外の芸能関係者のお墓、上方歌舞伎役者や昔の力士の墓などもありました。
たまたま夏祭りの日にブラブラしていた松屋町筋、愛染坂下でたまたま見つけたにしてはスゴイお寺さんでした。


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