2012年01月24日
中之島の彫像-あなたの名前は何ですか?
しかし、この作品の正式名称(題名)を知っている人は意外に少ないのではないでしょうか?(僕も全く知りませんでした)

緑の賛歌
この彫像「緑の賛歌」は兵庫県川西市の浅井鉞次郎氏が、緑豊かな文化の香り高い街づくりを進めている大阪市の緑化運動に協力して寄付されたものです。
ご芳志に深く感謝し、市民の皆さんと喜びをともにしたいと思います。
昭和四十八年四月
大阪市長 大島靖
題字
堀田庄三
彫像制作 本郷新
彫像の台座に上のように記されていました。

最後にこの像がある場所を付け加えて説明をするならば、みおつくしプロムナードとは大阪市役所、中之島図書館の南側を淀屋橋北詰から栴檀木橋北詰の中央公会堂にかけて敷かれた遊歩道のことです。

下の地図の「より大きな地図」を㋗してみて下さい。

より大きな地図で みおつくしプロムナード を表示
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2012年01月21日
中之島フェスティバルタワー-そびえ中
このビルは今年の10月末竣工予定で、商業施設は11月28日にオープンし、新生フェスティバルホールはビルの竣工後、約5ヶ月かけてホール内の音響調整やスタッフの訓練などを行なった後、2013年4月3日に開業式典を行います。この日は、昭和33年(1958)に完成した旧フェスティバルホール開設の日に合わせたものです。こけら落とし公演は旧ホール開館以来、世界の著名アーティストにより毎年開催されてきた「大阪国際フェスティバル」の再開公演となります。
このビルには朝日新聞大阪本社の一部も入居するようですが、やはり新フェスに期待がかかるのは当然のコトでしょう。

かつてフェスで行われたコンサートには「伝説」と言われた公演が多々あります。
山下達郎は、「ここを壊すのはカーネギーホールやオペラ座を壊すのと同じこと。愚行です。」と語り、当会場でのライブが二度と出来なくなるという強い思い入れからか、2008年12月~2009年4月に久々の全国ツアーを決行し、フェスティバルホールでは、2008年12月17・18日、27日・28日と4公演も行っています。
浜田省吾は、「東京では日本武道館、大阪ではフェスティバルホールでコンサートをするのがミュージシャンにとってのステータスだった。」
まさしさだ(さだまさし)もほとんどの大阪での公演でフェスティバルホールを使用していて、「神様が作ったホール」と称賛しています。デビュー35周年記念ツアー中に200回目の公演を迎え、それを「さだまさしデビュー35周年記念コンサートFESTIVAL HALL 200」というタイトルでライブ・アルバムにしています。
まさしの他にもライブ盤のための録音が行われることも多く、ディープ・パープル「ライヴ・イン・ジャパン」、マイルス・デイヴィス「パンゲア」などは世界でロングセラーを続けています。
毎年春に行われていた大阪国際フェスティバルには、世界の一流オーケストラやオペラなどが出演していました。
そして、バレエ公演においては関西のメッカとされ多くの国内外のバレエ団が公演を行っていました。

フェスティバルホールのイベントでよく知られていたのは、真夏8月に甲子園球場で開催される全国高等学校野球選手権大会の組み合わせ抽選会や年末の有線放送大賞でした。
山下達郎は、「ここを壊すのはカーネギーホールやオペラ座を壊すのと同じこと。愚行です。」と語り、当会場でのライブが二度と出来なくなるという強い思い入れからか、2008年12月~2009年4月に久々の全国ツアーを決行し、フェスティバルホールでは、2008年12月17・18日、27日・28日と4公演も行っています。
浜田省吾は、「東京では日本武道館、大阪ではフェスティバルホールでコンサートをするのがミュージシャンにとってのステータスだった。」
まさしさだ(さだまさし)もほとんどの大阪での公演でフェスティバルホールを使用していて、「神様が作ったホール」と称賛しています。デビュー35周年記念ツアー中に200回目の公演を迎え、それを「さだまさしデビュー35周年記念コンサートFESTIVAL HALL 200」というタイトルでライブ・アルバムにしています。
まさしの他にもライブ盤のための録音が行われることも多く、ディープ・パープル「ライヴ・イン・ジャパン」、マイルス・デイヴィス「パンゲア」などは世界でロングセラーを続けています。
毎年春に行われていた大阪国際フェスティバルには、世界の一流オーケストラやオペラなどが出演していました。
そして、バレエ公演においては関西のメッカとされ多くの国内外のバレエ団が公演を行っていました。

再開発もEことなのですが、少なくとも古いものの痕跡やそのイメージを街に刻んで欲しいものです。
上記、フェスティバルホールに関してはWikipediaを引用しています。コチラからドーゾ。
タグ :北区
2012年01月18日
福沢諭吉生誕地
福澤諭吉誕生地
幕末明治の大教育家福澤諭吉先生こゝに生る
時に天保五年十二月十二日(西暦一八三五年一月十日)。
こゝは舊豊前中津藩倉屋敷の長屋跡である。
先生の父百助は一面に於いて、経學者、詩文家であったが、然も、理財の道に精通した循吏であって、金穀會計の俗役に奔命して其生涯を終った人である。
彼は妻お順が、大きな瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」と語ったと傳へられてゐる。
封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道はこれを佛門に入らしめる以外にはなかったのであらう。
當時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が豫見し得たであらうか。
昭和二十九年一月 慶應義塾社中建之
題字 小泉信三
撰文 高橋誠一郎
書 西川寧
題字 小泉信三
撰文 高橋誠一郎
書 西川寧
父、百助の急死により、母と共に中津(現・大分県中津市)へ戻った諭吉は、中津で儒学を学び、安政元年(1854)、長崎遊学を終え江戸へ上る途中、大坂の蔵屋敷へ立ち寄った際に兄にの薦めで緒方洪庵の適塾に入門し、最終的には塾頭にまで昇り詰めます。
3度にわたる江戸幕府の遣外使節にも随行しました。
その後、慶応4年(1868)に慶應義塾を開設しました。
そして今も一万円札の肖像としても知られています。
より大きな地図で 福沢諭吉の通学路 を表示
福沢諭吉が、当時の中津藩屋敷から過書町(現・北浜)の適塾に通う道、通学路がどんな感じだったか…Googleマップに書き込んでみましたので「より大きな地図」を㋗してご覧ください。
最後になりましたが、諭吉の学んだ適塾についてはコチラからドーゾ4946です!
タグ :福島区
2012年01月15日
中津藩蔵屋敷跡
豊前国中津藩蔵屋舗之跡
江戸時代の大坂は「天下の台所」と謳われ、物流や商業の中心地として大いに賑わっていました。諸国の米や名産品、物資や情報が行き交う中之島周辺には諸国各藩の蔵屋敷が建ち並び、最盛期には100以上の蔵屋敷が軒を連ねたと伝えられています。
中津藩蔵屋敷は、石碑の立つ現在の朝日放送(ABC)の敷地とほぼ重なる位置に設営されていました。
文化3年(1806)に刊行された「増脩改正攝州大阪地圖」には、堂島川河畔の田蓑橋北詰から玉江橋北詰にかけて東から順に、長岡藩、上田藩、秋田藩、壬生藩、延岡藩、中津藩の6つの蔵屋敷が描かれています。
そして特筆ずベきは、ある人物がこの地に産声を上げました。天保5年(1835)12月12日、この中津藩蔵屋敷に福澤諭吉が誕生しています。
この地は平成5年(1993)に大阪大学医学部附属病院(阪大病院)移転してからは空地の状態が続きましたが、平成20年(2008)に「"水の都"復活につながる、魅力的な水辺のまちを創造する」というコンセプトの下、「ほたるまち」が誕生しました。朝日放送(ABC)とABCホール、堂島リバーフォーラムと堂島クロスウォークがその中核施設です。
上の古地図は文久3年(1863)に描かれた「國寶大阪全圖」の一部です。この頃には蔵屋敷も入れ替わり(敷地の面積は古地図ではよく見うけられる絵画的要素により実寸は測れない)、藩主である大名家の蔵屋敷をこの地域に8つ確認することができます。
より大きな地図で 諸藩の蔵屋敷群-田蓑橋北詰~玉江橋北詰 を表示
Googleマップで地図を作成しましたので、上の「より大きな地図」を見て下さい。文化3年(1806)、「増脩改正攝州大阪地圖」に描かれた田蓑橋から玉江橋にかけての蔵屋敷群を大まかに表現してみました。

今回は豊前国中津藩跡の碑を見て頂きましたが、勘のE読者ならもうお気付きかと思います。
バレバレではあるものの次回は諭吉さんについて、この地に生まれた福沢諭吉について書いてみます。
天は人の上に人を…人の下に人を…4946です!
上の古地図は文久3年(1863)に描かれた「國寶大阪全圖」の一部です。この頃には蔵屋敷も入れ替わり(敷地の面積は古地図ではよく見うけられる絵画的要素により実寸は測れない)、藩主である大名家の蔵屋敷をこの地域に8つ確認することができます。
より大きな地図で 諸藩の蔵屋敷群-田蓑橋北詰~玉江橋北詰 を表示
Googleマップで地図を作成しましたので、上の「より大きな地図」を見て下さい。文化3年(1806)、「増脩改正攝州大阪地圖」に描かれた田蓑橋から玉江橋にかけての蔵屋敷群を大まかに表現してみました。

バレバレではあるものの次回は諭吉さんについて、この地に生まれた福沢諭吉について書いてみます。

天は人の上に人を…人の下に人を…4946です!

「おおさか遊ぶろぐ」でこの記事をチェック!
タグ :福島区
2012年01月12日
蛸の松
蛸の松(たこのまつ)
江戸時代、中之島には諸藩の蔵屋敷が建ち並び、屋敷前には各藩自慢の松が植えられていました。人々は屋敷の白壁と川の流れに映る松の景色を楽しんだといわれています。
なかでも、堂島川のほとりの久留米藩と広島藩の境の浜の松は、枝振りが蛸の泳ぐ姿に似ていることから「蛸の松」と呼ばれる名木でした。月の夕べや雪の朝の眺めはとりわけ美しく、絶賛されました。
江戸時代の「蛸の松」は地図に示す対岸にありました。明治維新後は、大阪府師範学校付属演習小学校(現大阪教育大学付属天王寺小学校)が大阪久留米藩蔵屋敷跡地に開校し、その同窓会は、この地の松に因んで「雛松会」と名付けられました。
その後、「蛸の松」は次第に樹勢が衰え、明治時代も終わるころ、枯死してしまいました。その切り株は現在、大阪教育大学に大切に保存されています。
このたび護岸の美化にあわせ、かっての風趣を偲んで、「蛸の松」をこの地に再現ましした。
平成十六年 雛松会
神宗(かんそう)とは、大阪では有名な老舗の塩昆布(しおこぶ)屋さんです。
一度、大教大の天王寺キャンパスに、当時の松の切り株がどれ程の大きさだったのか見学に行ってみましょう。

より大きな地図で 蛸の松と蔵屋敷 を表示
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