懐徳堂跡
この地は徳川時代の学校として名高い懐徳堂の跡である
享保11年の開学から明治2年の閉鎖まで
140年の間 大阪文教の中心であった
大正の初年に先儒の偉業を顕彰して記念会が設立されたので
当社も協賛しこの碑を建てた
撰文は記念会の創設者西村天囚先生
揮毫は懐徳堂第2代の学主たる
中井甃庵先生の玄孫中井天生先生である
-「懐徳堂旧阯の碑について」案内板より(
原文ママ)
懐徳堂とはどのような
私塾であったか?案外知らない方も多いかと思われますので私なりに纏めてみました。
1724年(享保9年)、大坂の商人、道明寺屋吉左衛門(富永芳春)、三星屋武右衛門(中村良斎)、船橋屋四郎右衛門(長崎克之)、備前屋吉兵衛(吉田可久)、鴻池又四郎(山中宗古) の有力町人5人(五同志)が出資し三宅石庵を師として招き設立した私立の漢学塾です。
1726年(享保11年)江戸幕府の許可を受け半官立となりました。そのあと2代学主・中井甃庵、3代・三宅春楼、4代・中井竹山と続き、大坂文化・学芸の形成と商道徳の育成に貢献しました。
塾生は武士から庶民まで幅広く、席順も身分に関係なく、商人らの繁忙のこともにも配慮し遅刻や早退も自由でした。
門下生として富永仲基、山片蟠桃、草間直方がおり、自らの理性のみを武器とし、一切の偏見から自由な思想を展開した人たちを輩出しています。
この私塾は適塾(コチラ)と共に、現在の大阪大学の基になっています。
大阪市中央区
今橋三丁目の日本生命ビルの壁に埋め込まれた「懐徳堂旧阯の碑」。
大阪を代表する企業、日本生命のビルは
淀屋橋駅と連結していて、更にビルが空中でつながっているのです。
本館と南館・東館が空中で結ばれています。
また
ニッセイの件は書きます。
大阪検定では、懐徳堂も重要なネタですが、日本生命もネタになりますよ。
以前、もう10年ほど昔の話になりますが、
関学(KWANSEI-GAKUIN・かんせい学院大学)で開催されたノーベル賞フォーラムで
大江健三郎の「
懐徳堂から
東海村まで」と題する公演をきいたのを思い出しました。
アクセスは簡単です。京阪・地下鉄御堂筋線淀屋橋駅下車徒歩10秒。
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