榎木大明神
榎木大明神の由来
長年に渡り、地元の人に「エノキさん」「巳さん」と親しみ呼ばれているこの大樹は、正しくは「槐(エンジュ)」という中国原産の樹である。楠木正成公がお手植えという説もあり、樹齢はおよお六百五十年と言われている。豊臣の時代には当地も大阪城域で、この辺りは紀州熊野参りとお伊勢参りの街道筋だった。だから大きくそびえるこの樹は、何よりの目印になったし、また地元の人達は土地神として「白蛇大明神」の祠を建てて代々この樹をお守りしてきました。 昭和二十年(1945年)第二次世界大戦の大空襲の折には、襲ってきた猛火がこの樹の辺りでピタリと止まり、東側一帯が危うく類焼を免れた。これも霊験のひとつとして語り伝えられており、毎年春のお彼岸前後には、地元「箔美会」の人達により、榎木大明神の大祭が挙行されている。 昭和六十三年(1988年)、当樹が枯死寸前の状態になったとき、大阪市と「箔美会」からの依頼を受けた山野忠彦樹医の適切な延命治療により、再び元気を取り戻した。 そして現在、樹勢は極めて盛んとなり、地元で実施され直木賞で有名な直木三十五氏の文学碑とともに、都心のオアシスとなっている。 平成六年(1994年)十月吉日-榎木大明神 箔美会
「坂を抱く街」上町台地の象徴のような榎木大明神さんは、昔この坂の下の際(現・長堀通)まで海やった時からこの地を見守っていたようです。まるで住吉っさんのような立地やったんですな。熊野街道がこの付近で東に道を曲げています。
小説、
プリンセス・トヨトミ(
万城目学/
文藝春秋)の第一章の51ページに次のように榎木大明神が描写されています。
この章の挿絵にも描かれた榎木大明神は実在します。
鳥居を押し包むように、一本の巨木が立っている。大きく枝葉を広げた木が、幅の狭い道のほぼ左半分を塞いでいた。その手前には、木の根元に寄り添うように、小さな社がひっそり構えている。
ちょっと待ってて、と茶子に告げ、大輔は傘を閉じ、鳥居をくぐった。障子一枚くらいの大きさの鳥居には、「榎木大明神」と赤字で書きこまれた額が掲げられていた。雨と朝の光が混ざり合い、空が妙な具合に白く輝いている。木の下から見上げると、生い茂る葉の隙間から雲の光がぼんやり洩れて、枝葉がおぼろに映った。
榎木大明神は、その名のとおり大きな神樹だ。厳密にはエノキではなくエンジュという木らしいが、このあたりを守る立派な神さまである。太い木の幹には綱が巡らされ、足元に小さな祠が置かれている。御神体の白蛇にちなみ、地元の人間はこの小さな稲荷を「巳さん(みいさん)」と呼ぶ。
「強さをください」
祠に手を合わせ、大輔はこれまで七年間、お願いしてきたことと、はじめて別の願い事をした。
アクセスは簡単や!
下の地図を参照して下さい。4946です!
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