露天神社(お初天神)
由緒略記
御祭神 少彦名大神・大己貴大神・天照大神・豐受姫大神・菅原道眞
摂社 稲荷神社・水天宮・金比羅神社
社伝によれば、創建は壱千百有余年を遡り、文徳天皇の御代、
嘉祥3年(850)に定め給いし「難波八十島祭」の旧蹟にも数えられ、「住吉住地曽祢神」を祀ると伝えられる。
往地此の地は曽根洲と称する孤島にて、曽根洲、後の曽根崎の地名はこの御神名より起こる。
平安期、渡辺十郎源契来りて入植せしより、渡辺氏一族を始め移植の民次第に増し、曽根崎村へと発展し、
当社も産土神「曽根崎天神」として尊崇された。現在も梅田、曽根崎地区の鎮守として信仰を集めている。
昌泰4年(901)菅原道真公筑紫に左遷配流の途次、当地を過ぎ給う砌(みぎり)、境内の草木露深ければ
露と散る 涙に袖は 朽ちにけり 都のことを 想い出づれば
と詠ぜられ、菅公大宰府にて御他界の後、その遺徳を偲び奉り合祀し、右の御歌より「露ノ天神社」と称する。(社名の由来その他諸説有り)
元禄16年4月7日堂島新地天満屋抱えの「お初」と内本町醤油屋平野屋の手代「徳兵衛」、当社「天神の森」にて情死し、日を置かず時の戯曲作家「近松門左衛門」により「曽根崎心中」として劇化された。
以後上演の度、男女身分の差無く多数の民衆観劇し、挙って当社に参詣慰霊に訪れたと云う。「お初天神」と通称される所以である。-現地案内板より
境内末社の水天宮と金刀比羅宮です。水天宮は中之島の久留米藩蔵屋敷に祀られていたが、明治維新の際、丸亀藩蔵屋敷の金刀比羅宮に合祀され、この境内に落ち着きました。
境内末社の開運稲荷社。
明治42(1909)の「北の大火」で近在各地に祀られていた稲荷社4社が焼失したため、翌年当社に合祀されました。
「曽根崎心中」ゆかりの地がこの神社であることは由緒略記でも触れていましたが、それに関しては
コチラからドーゾ!
都会のオアシスですね。お昼はサラリーマンや近所の人が寛ぎ、夜はこの界隈の古シブイ飲み屋で癒される。E神社でした。
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