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2010年05月20日

緒方洪庵と適塾

[緒方洪庵] ブログ村キーワード
緒方洪庵と適塾
大阪の旧町名、過書町について調べていたら過書町丼池東入という江戸時代末期の住所に適塾をみつけました。ついでという訳ではありませんが、適塾と緒方洪庵について、「大阪府地名Ⅰ/平凡社:1986年刊」から抜粋してみます。ちなみにこの本は地名・町名の辞典でありながら文化財名所建物についての説明・解説まで備えています。スグレモノです。

緒方洪庵と適塾

適塾

近世蘭学者緒方洪庵の塾。適々斎塾ともいう。
洪庵は備中足守藩佐伯瀬左衛門の次男に生まれ、蘭学大坂中天游江戸坪井信道に学び、次いで長崎に遊学したのち、天保9年(1838年)瓦町に当塾を開き、同14年過書町に移転した。以降文久2年(1862年)幕府奥医師西洋医学頭取として江戸に下るまで、塾生を指導した。当時日本第一の蘭学塾といわれ、青森県を除く全国各地から1千名を超える若者が集まった。その猛勉強ぶりは「福翁自伝」にくわしいが、福沢諭吉大村益次郎橋本左内大鳥圭介長与専斎佐野常民ら、幕末から明治にかけて活躍した人材を多く輩出した。
洪庵は「扶氏経験遺訓」「病学通論」「虎狼痢治準」の著訳書があり、また天然痘予防にも努め、古手町、のち尼崎町1丁目に除痘館を設け種痘を行った。
適塾は幕末には閉館したが、その後も緒方拙斎・惟準ら緒方家の人々が住み、昭和17年(1942年)適塾の土地・建物ともに大阪大学に寄付され、以降同大学が維持・管理するとともに顕彰事業を行っている。わが国唯一の蘭学塾の遺構、大阪における最古の町屋として現存する。土地・建物は「緒方洪庵旧宅および塾」として国の史跡、建物は「緒方洪庵住宅」として重要文化財。昭和51~55年文化庁による解体修理がなされ、大正期になされた前面の軒切りなどを除いて、かつての姿に復元された。

緒方洪庵と適塾
どうでしょうか?蘭学とはほぼ医学、薬の勉強を指すようです。オランダに学ぶ西洋科学といったところでしょうか?
鎖国下の日本では長崎でしか西洋との接点が無い、だから革新的なものを求めて、龍馬、勝海舟、緒方洪庵・・・and More!みんな長崎でオランダ人に学んだんでしょう。

緒方洪庵と適塾
また適塾は、道修町の薬種問屋街と至近距離にあり、医学と医療を学ぶ塾生にとって、情報収集や資料採集に好都合なロケーションだったに違いありません。

あー疲れた。時計ハマってもうた!炎バイバイ!力こぶ


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タグ :旧東区

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Posted by nao道 at 07:07│Comments(0)史跡を巡る
 
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