2010年06月21日
千利休屋敷跡
堺の豪商魚屋ととやの長男として生まれた与四郎は初め北向道陳(きたむきどうちん)に茶湯を学んだが、更に道陳の師武野紹鴎に師事し、遂に「わび茶」を大成させた。
千与四郎は、茶名千宗易といい、織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町天皇より利休居士号(りきゅうこじごう)を賜った。
千与四郎は、茶名千宗易といい、織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町天皇より利休居士号(りきゅうこじごう)を賜った。
また、壮年時には抛筌斎(ほうせんさい)とも号していた。
天正15年(1587)10月秀吉の北野大茶会をつかさどり、秀吉に次いで二番の席をもうけるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々工夫をこらし、わび・さびの境地をきりひらいた。
その根底には、大徳寺の禅師に深く禅を学び、茶禅一味の悟りに達していたことが考えられる。
その後天正19年(1591)2月秀吉の怒りをかい京都から追放され堺にて謹慎していたが、京都に呼び戻され同月28日尼子三郎左衛門らを検使として切腹させられた。
天正15年(1587)10月秀吉の北野大茶会をつかさどり、秀吉に次いで二番の席をもうけるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々工夫をこらし、わび・さびの境地をきりひらいた。
その根底には、大徳寺の禅師に深く禅を学び、茶禅一味の悟りに達していたことが考えられる。
その後天正19年(1591)2月秀吉の怒りをかい京都から追放され堺にて謹慎していたが、京都に呼び戻され同月28日尼子三郎左衛門らを検使として切腹させられた。
この屋敷跡には、利休が茶湯に常用していたといわれる椿井が、また南宗寺には実相庵と称する二畳台目の茶席(塩穴寺より明治9年南宗寺に移築、第二次大戦で焼失昭和35年7月復興)があ。
堺市
Posted by nao道 at 08:18│Comments(0)
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