2010年08月23日
八軒家浜
この地は江戸時代には八軒家と称し淀川を上り下りの三十石船の発着場として、さらに古くは渡辺といい紀州熊野詣での旅人の上陸地として栄えた。
大阪市中央区天満橋京町にある永田屋昆布本店(上の写真)に遺された、牧村氏による碑文です。
この方は、「大阪ことば辞典」の著者でもあります。
永田屋昆布本店さんで頂いた冊子(下の写真)が、かなりのスグレモノというか、ほとんど八軒家浜(八軒屋浜)を語り尽くしているのではないか、と思えてくるほど素晴らしいものでしたので抜粋させて頂きます。こちらも先ほどの、牧村史陽氏が記されたものです。(ホボ)

いま天神橋・天満橋のかかっている大川は、古く仁徳天皇のときに掘られた難波(なにわ)ノ堀江のことです。
「万葉集」には、この堀江川を松浦船や伊豆手船などという大きな船がさかのぼって難波ノ宮に集まってくるさまがたくさんうたわれています。つまりこの地は、御津・住吉(すみのえ)ノ津とともに、当時の港だったわけです。
この南側の断崖の上を楼ノ岸といい、そこに坐摩神社がまつられていました。坐摩は「いがすり」とよみ、泉の神をまつったものですが、のちに豊臣秀吉が大坂築城のとき、いまの東区渡辺町へ移転させたのです。石町(こくまち)にある坐摩神社のお旅所はそのあとを残すもので、神功皇后の腰掛け石というものが伝えられ、石町の名もその石から出たものといわれています。平安朝時代には、ここを「渡辺」と呼ばれていました。向かい側へ渡る渡し場の意味ですが、また窪津の名も伝わっています。
「国府津(こうづ)」のなまりで、そのころここに国府があり和気清麻呂が摂津職(せっつじき)(摂津ノ国の長官)となってここを管轄していたこともあります。摂津とは「津を摂(す)べる(支配する)」という意味で、津は港のこと、すなわち摂津の国名もこの地からおこったとみるべきでしょう。
渡の辺や大江の岸にやどりして雲井に見ゆる生駒山かな 能因法師
この大江の岸とは、渡辺からおこってはるかに、生玉・天王寺へとつづく高台の西側の断崖の総称です。

道中膝栗毛 十返舎一九
押照るや難波の津(なにわのつ)は、海内秀異の大都会にして、諸国の賈船(こせん)、木津・安治の両川口にみよしをならべ、碇(いかり)をつらねて、ここにもろもろの荷物をひさぎ、繁昌の地いふばかりなし。ことさら春の花は淀川に棹さして桜の宮にあそび、網島の鮒卯(ふなう)に酔をもよほし、夏は難波新地の納涼に蛍をかり、豆茶屋に腹をこやし、秋は浮む瀬の月、冬は解船町(ときふねまち)の雪げしき、四季折々の詠(なが)め多かる中に、目枯れぬ花の廓(くるわ)中はいつも盛りの春のごとく賑はひ、道頓堀の芝居はつねも顔見世の心地して群集絶えず。かかる名誉の地を見のこすも本意なしとて、かの弥次郎兵衛・北八なるもの、伏見の昼船に途中より飛び乗りて、はやくも大坂の八軒家にいたり、ここより船をあがりたるは最早たそがれ時にして、東西をしらず南北をわきまえざれば、人に尋ねとひつつ、長町をさしてゆくほどに、堺筋通を南に日本橋へ出でたりければ、宿引きどもここに居合はせ、両人を見かけて宿の相談をしかくるに、早速きはまり、すぐさまこの長町の七丁目なる分銅河内屋といふにぞつれゆきける。
まあ、これでこの件はヨシです。
大阪市中央区天満橋京町にある永田屋昆布本店(上の写真)に遺された、牧村氏による碑文です。
この方は、「大阪ことば辞典」の著者でもあります。
永田屋昆布本店さんで頂いた冊子(下の写真)が、かなりのスグレモノというか、ほとんど八軒家浜(八軒屋浜)を語り尽くしているのではないか、と思えてくるほど素晴らしいものでしたので抜粋させて頂きます。こちらも先ほどの、牧村史陽氏が記されたものです。(ホボ)
「万葉集」には、この堀江川を松浦船や伊豆手船などという大きな船がさかのぼって難波ノ宮に集まってくるさまがたくさんうたわれています。つまりこの地は、御津・住吉(すみのえ)ノ津とともに、当時の港だったわけです。
この南側の断崖の上を楼ノ岸といい、そこに坐摩神社がまつられていました。坐摩は「いがすり」とよみ、泉の神をまつったものですが、のちに豊臣秀吉が大坂築城のとき、いまの東区渡辺町へ移転させたのです。石町(こくまち)にある坐摩神社のお旅所はそのあとを残すもので、神功皇后の腰掛け石というものが伝えられ、石町の名もその石から出たものといわれています。平安朝時代には、ここを「渡辺」と呼ばれていました。向かい側へ渡る渡し場の意味ですが、また窪津の名も伝わっています。
「国府津(こうづ)」のなまりで、そのころここに国府があり和気清麻呂が摂津職(せっつじき)(摂津ノ国の長官)となってここを管轄していたこともあります。摂津とは「津を摂(す)べる(支配する)」という意味で、津は港のこと、すなわち摂津の国名もこの地からおこったとみるべきでしょう。
渡の辺や大江の岸にやどりして雲井に見ゆる生駒山かな 能因法師
この大江の岸とは、渡辺からおこってはるかに、生玉・天王寺へとつづく高台の西側の断崖の総称です。
京都から淀川を船で下って天王寺・住吉・高野、あるいは遠く紀州熊野へおまいりする皇族や公家たちは、みなこの渡辺から上陸して、上町台地を南へと道をとってよきました。そうした関係から、やがてこの津がしらに渡辺王子(また窪津王子)がまつられることになりました。熊野九十九ヵ所の第一王子で、それから熊野街道(いまの阿倍野街道)を、日数をかさねて熊野までの旅を続けたものです。
この渡辺王子はのちに四天王寺西門前に移されましたが、明治中期に廃絶しました。その第二王子が、いまも阿倍王子神社として残っています。
渡辺橋はいつごろできたものかはっきりしません。
「元亨釈書」に、聖武天皇の天平十七年、行基が難波ノ橋をかけたというのがこれにあたると思いますが、その後洪水のためしばしば流されてはかけかえられたことだろうと想像されます。
その何度目かの渡辺橋の渡りぞめのとき、遠藤武者盛遠(もりとお)がその橋奉行をつとめて、袈裟御前を見そめたのが、あの「地獄門」の話の発端ともなっています。
天神橋・天満橋がかけられたのは、ずっとのちの豊臣時代のことです。徳川時代になってそれに難波橋が加えられ、大阪の三大橋としていまなお人々に親しまれています。八軒家の名は、ここに八軒の船宿や飛脚屋があったことから出たものだといわれています。
十返舎一九の「膝栗毛」で知られる弥次さん・北さんが大坂への上陸第一歩を印したのもこの八軒家ですし、森の石松の「すし食いねえ」の話もここに設定せられているなど、八軒家は千数百年の間何かと話題の絶えないところであります。
渡辺橋はいつごろできたものかはっきりしません。
「元亨釈書」に、聖武天皇の天平十七年、行基が難波ノ橋をかけたというのがこれにあたると思いますが、その後洪水のためしばしば流されてはかけかえられたことだろうと想像されます。
その何度目かの渡辺橋の渡りぞめのとき、遠藤武者盛遠(もりとお)がその橋奉行をつとめて、袈裟御前を見そめたのが、あの「地獄門」の話の発端ともなっています。
天神橋・天満橋がかけられたのは、ずっとのちの豊臣時代のことです。徳川時代になってそれに難波橋が加えられ、大阪の三大橋としていまなお人々に親しまれています。八軒家の名は、ここに八軒の船宿や飛脚屋があったことから出たものだといわれています。
十返舎一九の「膝栗毛」で知られる弥次さん・北さんが大坂への上陸第一歩を印したのもこの八軒家ですし、森の石松の「すし食いねえ」の話もここに設定せられているなど、八軒家は千数百年の間何かと話題の絶えないところであります。
道中膝栗毛 十返舎一九
押照るや難波の津(なにわのつ)は、海内秀異の大都会にして、諸国の賈船(こせん)、木津・安治の両川口にみよしをならべ、碇(いかり)をつらねて、ここにもろもろの荷物をひさぎ、繁昌の地いふばかりなし。ことさら春の花は淀川に棹さして桜の宮にあそび、網島の鮒卯(ふなう)に酔をもよほし、夏は難波新地の納涼に蛍をかり、豆茶屋に腹をこやし、秋は浮む瀬の月、冬は解船町(ときふねまち)の雪げしき、四季折々の詠(なが)め多かる中に、目枯れぬ花の廓(くるわ)中はいつも盛りの春のごとく賑はひ、道頓堀の芝居はつねも顔見世の心地して群集絶えず。かかる名誉の地を見のこすも本意なしとて、かの弥次郎兵衛・北八なるもの、伏見の昼船に途中より飛び乗りて、はやくも大坂の八軒家にいたり、ここより船をあがりたるは最早たそがれ時にして、東西をしらず南北をわきまえざれば、人に尋ねとひつつ、長町をさしてゆくほどに、堺筋通を南に日本橋へ出でたりければ、宿引きどもここに居合はせ、両人を見かけて宿の相談をしかくるに、早速きはまり、すぐさまこの長町の七丁目なる分銅河内屋といふにぞつれゆきける。
「道中膝栗毛」第八編、弥次郎兵衛と北八の二人が八軒家に上陸して日本橋筋の分銅河内屋に宿をとり、これから大坂を見物しようとするその序文の一節。十返舎一九が文化六年(西暦一八〇九)に発表したものである。

熊野への道
熊野詣では修験道の行者達が開祖でしょう。
熊野への道
熊野詣では修験道の行者達が開祖でしょう。
熊野詣の皇族や公家の先駆けは、平安初期の九〇七年真言宗の神仏融合の山岳宗教に信仰のあつい宇多上皇の御幸でした。そこから八十五年後の九九二年に、やんごとなき出家をされて歌芸に秀でた花山上皇の御幸がありました。
さらに百年を経て一〇九〇年から本格的な恒例の熊野詣が、白河上皇から始まります。それは白河九回、鳥羽二十一回、崇徳一回、後白河三十四回、後鳥羽二十八回、土御門二回、後嵯峨三回、亀山一回と続きました。ほぼ一月の旅程と莫大な費用を要した上皇の熊野詣は皇室が富と権力を持った院政時代の終焉とともに終わりました。
熊野は皇室のあつい信仰は失いましたが、鎌倉、室町、江戸幕府と続く権力者達が信仰を受け継ぎますが、熊野詣の主体は一般庶民の路に途切れることの無い参詣者になります。「蟻の熊野詣」といわれた所以でしょう。
平安時代からの熊野詣は、京を出発し下鳥羽から船で淀川を下り、渡辺の津と当時いわれたこの辺り(後の八軒家)で上陸し、熊野九十九王子をたどり、遥かな旅を続けました。その第一王子が窪津王子(又、渡辺王子)で、今は坐摩神社お旅所に合祀されています。
平安時代からの熊野詣は、京を出発し下鳥羽から船で淀川を下り、渡辺の津と当時いわれたこの辺り(後の八軒家)で上陸し、熊野九十九王子をたどり、遥かな旅を続けました。その第一王子が窪津王子(又、渡辺王子)で、今は坐摩神社お旅所に合祀されています。
天満橋風景
天満橋八軒家は、平安時代より鎌倉時代にかけて皇族、貴族の紀州熊野本宮への参詣道(熊野街道)の起点として賑いました。
江戸時代は、八軒の船宿が軒を並べ、京、大阪を上り下りする三十石舟の往来激しい浪花名所のひとつでした。
森の石松が金刀比羅参りの帰り、「江戸っ子だってねえ、寿司食いねえ」と笑わせたのはこの舟の中ということになっています。
天満橋八軒家は、平安時代より鎌倉時代にかけて皇族、貴族の紀州熊野本宮への参詣道(熊野街道)の起点として賑いました。
江戸時代は、八軒の船宿が軒を並べ、京、大阪を上り下りする三十石舟の往来激しい浪花名所のひとつでした。
森の石松が金刀比羅参りの帰り、「江戸っ子だってねえ、寿司食いねえ」と笑わせたのはこの舟の中ということになっています。
明治から平成と近代化が進み現在では、京阪電車と、地下鉄谷町線が交叉して、昔を偲ばせる三十石舟は、現在ではアクアライナー(水上バス)として就航し、賑やかなターミルの役目は今も変わりません。
大川沿いは緑に囲まれ、隣接する中之島・北浜・ビジネスパーク・大阪城界隈などは、数多くの史蹟をはじめ、ホテル・官庁街等新旧をあわせた見どころがいっぱいです。また、天満橋では商業施設が充実するなどの再開発が進んでおり、水都・大阪再生への取り組みのひとつとして注目されています。
ほぼ永田屋昆布本店の冊子の原文ママですが、現代口語に置き代えさせていただいだ箇所も少しだけあります。なお道中膝栗毛は、そのママにしておきましたが、御存じ「東海道中膝栗毛」のことです。
大川沿いは緑に囲まれ、隣接する中之島・北浜・ビジネスパーク・大阪城界隈などは、数多くの史蹟をはじめ、ホテル・官庁街等新旧をあわせた見どころがいっぱいです。また、天満橋では商業施設が充実するなどの再開発が進んでおり、水都・大阪再生への取り組みのひとつとして注目されています。
-永田屋昆布本店冊子より
ほぼ永田屋昆布本店の冊子の原文ママですが、現代口語に置き代えさせていただいだ箇所も少しだけあります。なお道中膝栗毛は、そのママにしておきましたが、御存じ「東海道中膝栗毛」のことです。
まあ、これでこの件はヨシです。
Posted by nao道 at 08:08│Comments(3)
│史跡を巡る
この記事へのコメント
牧村史陽さん・・・
「大阪ことば辞典」私はこれを愛読しています。古典から現代までアクセント付きで重宝?してます。
しかし偉大な書物ですなぁ。たまにですが史陽全集にも目を通しております。
用例で笑ったのは「命まで懸けた女てこれかいな」でした。(て の用法です)
今日、市立中央で「大大阪年鑑昭和12年版」を借りました。当分、これで楽しめそうです。出版元は「大阪人」の会社でした。
「大阪ことば辞典」私はこれを愛読しています。古典から現代までアクセント付きで重宝?してます。
しかし偉大な書物ですなぁ。たまにですが史陽全集にも目を通しております。
用例で笑ったのは「命まで懸けた女てこれかいな」でした。(て の用法です)
今日、市立中央で「大大阪年鑑昭和12年版」を借りました。当分、これで楽しめそうです。出版元は「大阪人」の会社でした。
Posted by ダラカニ at 2010年08月23日 21:32
大変失礼いたしました。
この記事は、ホンマにすみません。
書きかけの記事が、私の不始末で出てしまいました。
ずっと前から、実は追っていて八軒家のことはイツカ記事にしようと大切にしていたんですが・・・
もう一度、見て下さい・・・スンマヘン、少しは纏めました。
「大阪人」ってゆう雑誌は、なんやら長い名前の出版社でっせー。(財)大阪~とかいう・・・
旭屋・梅田の旭屋書店の記事を読んでいただいたんですよね。古い記事でしたが、うれしいです。僕は旭屋LOVEなんですよ。昔から。
といっても、ダラカニさんには負けますが・・・
この記事は、ホンマにすみません。
書きかけの記事が、私の不始末で出てしまいました。
ずっと前から、実は追っていて八軒家のことはイツカ記事にしようと大切にしていたんですが・・・
もう一度、見て下さい・・・スンマヘン、少しは纏めました。
「大阪人」ってゆう雑誌は、なんやら長い名前の出版社でっせー。(財)大阪~とかいう・・・
旭屋・梅田の旭屋書店の記事を読んでいただいたんですよね。古い記事でしたが、うれしいです。僕は旭屋LOVEなんですよ。昔から。
といっても、ダラカニさんには負けますが・・・
Posted by nao道
at 2010年08月26日 01:34

よく纏められていますね。
感心しますよ。
私なんかバラバラの知識ですね。以前、歴史に興味もなかったころ、偶然に昆布屋さん、座摩はんのお旅所を見ていました。知識ってこんな形で後でつながって
いくんですね。長町といえば日本橋3丁目から恵美須町へかけてだったと思います。木賃宿+スラムだったと読みました。宮本又次先生は今の大阪弁は長町言葉+木津言葉(市場)だとも書いておられました。
感心しますよ。
私なんかバラバラの知識ですね。以前、歴史に興味もなかったころ、偶然に昆布屋さん、座摩はんのお旅所を見ていました。知識ってこんな形で後でつながって
いくんですね。長町といえば日本橋3丁目から恵美須町へかけてだったと思います。木賃宿+スラムだったと読みました。宮本又次先生は今の大阪弁は長町言葉+木津言葉(市場)だとも書いておられました。
Posted by ダラカニ at 2010年09月01日 22:37