2010年10月26日
経塚
上町台地には、難波宮跡をはじめ古代からの様々な遺跡が残っている。古墳については、現在も墳丘が確認できるものは帝塚山古墳などわずかに過ぎないが、かつては多数の古墳が点在していたと考えられている。熊野街道の周辺には、北畠顕家の墓とも伝えられる「大名塚」や「小町塚」「播磨塚」など古墳の存在をうかがわせる「塚」がいくつか残っている。聖徳太子が一字一石経を埋めたとか、空海が写経を埋めたとも伝えられる「経塚」もそのひとつで、江戸時代の地誌「摂津名所図会」には「大名塚」の北のやや離れたところに墳丘と石柱が描かれている。いつのころからか石柱のみ「大名塚」のすぐ北側の宅地に移り、墳丘は消滅してしまった。石柱の背面には「了證」とあり、願主と思われる。平成7年(1995)にこの石柱を熊野街道に面した晴明丘公園に再度移転した。
①江戸時代の摂津国の地誌「摂陽群談」の説では、聖徳太子が諸経の文字を、一字ずつ一石に書いて、ここに納められたとされる。
②阿倍王子神社の縁起書「阿倍権現記」には、天長3年(826年)の夏、疫病流行に際し、空海(弘法大師)が、王子神社に入り一千部の薬師経を書写し、この塚に納めたとある。
位置関係をこの図の遠近感だけで推測すると、この3塚は安倍王子神社の南東、現在の阿倍野区阪南町5丁目付近か、更に遠く東住吉区南田辺、鶴ヶ丘あたりのような感じがします・・・逆にスゴク近いとしたら北畠公園(北畠顕家の墓)のあたりでしょうか?この墓は「大名塚」の比定地であり、しかもお隣は阿倍野区播磨町(播磨塚に由来)ですしね・・・ワカラン!
現在、石柱と大阪市教育委員会による案内板がある晴明丘公園は
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Posted by nao道 at 23:27│Comments(2)
│史跡を巡る
この記事へのコメント
こんばんは リアルな地図で大阪を散歩した感じです。
でも ようく調べてますね。
すごい勉強してらっしゃるんですね。 頑張ってください。
でも ようく調べてますね。
すごい勉強してらっしゃるんですね。 頑張ってください。
Posted by FLORENTIA55 at 2010年10月29日 05:14
地図でよろしければ、また大阪の街を散歩して下さいね。
Posted by nao道 at 2010年10月30日 03:14