オオサカジン

日記/一般 日記/一般   | 大阪市

新規登録ログインヘルプ


O-TUBE By nao道
nao道
nao道
みんなが知ってるいつもの大阪、意外に知られていないあんな歴史こんな人物、ウソかホンマか伝説・逸話、そして大阪検定のためになる話とソーでもない記事満載のブログ。
コメント・TB、お待ちしております。4946!!!
COUNTER
< 2024年05月 >
S M T W T F S
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
WEEKLY-RANKING
 › O-TUBE › 史跡を巡る › 経塚
2010年10月26日

経塚

経塚
経塚
上町台地には、難波宮跡をはじめ古代からの様々な遺跡が残っている。古墳については、現在も墳丘が確認できるものは帝塚山古墳などわずかに過ぎないが、かつては多数の古墳が点在していたと考えられている。熊野街道の周辺には、北畠顕家の墓とも伝えられる「大名塚」や「小町塚」「播磨塚」など古墳の存在をうかがわせる「塚」がいくつか残っている。聖徳太子が一字一石経を埋めたとか、空海が写経を埋めたとも伝えられる「経塚」もそのひとつで、江戸時代地誌摂津名所図会」には「大名塚」の北のやや離れたところに墳丘と石柱が描かれている。いつのころからか石柱のみ「大名塚」のすぐ北側の宅地に移り、墳丘は消滅してしまった。石柱の背面には「了證」とあり、願主と思われる。平成7年(1995)にこの石柱を熊野街道に面した晴明丘公園に再度移転した。

経塚
経塚(きょうづか)の由来については、2説あります。
①江戸時代の摂津国の地誌「摂陽群談」の説では、聖徳太子が諸経の文字を、一字ずつ一石に書いて、ここに納められたとされる。
阿倍王子神社の縁起書「阿倍権現記」には、天長3年(826年)の夏、疫病流行に際し、空海(弘法大師)が、王子神社に入り一千部の薬師経を書写し、この塚に納めたとある。 

経塚
摂津名所図会の図中では、手前に大きく描かれてるのが阿倍王子神社で、右上に3つの塚があり、そのうちの左から、経塚、大名塚、その下に小町塚という配置になっています。
位置関係をこの図の遠近感だけで推測すると、この3塚は安倍王子神社の南東、現在の阿倍野区阪南町5丁目付近か、更に遠く東住吉区南田辺、鶴ヶ丘あたりのような感じがします・・・逆にスゴク近いとしたら北畠公園(北畠顕家の墓)のあたりでしょうか?この墓は「大名塚」の比定地であり、しかもお隣は阿倍野区播磨町(播磨塚に由来)ですしね・・・ワカラン!プレゼント
この塚も道路工事により移されました。これも推測やけど・・・道路って、あべの筋(府道30号線)かあびこ筋(府道28号線)の拡張工事しかないやろ?南港通とかではないような・・・
現在、石柱と大阪市教育委員会による案内板がある晴明丘公園は↓

「おおさか遊ぶろぐ」でこの記事をチェック!

タグ :阿倍野区

同じカテゴリー(史跡を巡る)の記事画像
鴫野古戦場碑-鴫野・今福の戦い
大坂夏の陣 道明寺合戦記念碑
後藤又兵衛基次之碑-道明寺・誉田の戦い
奥田忠次の墓-道明寺・誉田の戦い
小松山古戦場跡-道明寺・誉田の戦い
真田幸村(信繁)の銅像-安居神社
同じカテゴリー(史跡を巡る)の記事
 鴫野古戦場碑-鴫野・今福の戦い (2016-07-27 11:11)
 大坂夏の陣 道明寺合戦記念碑 (2016-07-20 10:10)
 後藤又兵衛基次之碑-道明寺・誉田の戦い (2016-07-17 08:08)
 奥田忠次の墓-道明寺・誉田の戦い (2016-07-16 09:09)
 小松山古戦場跡-道明寺・誉田の戦い (2016-07-15 19:25)
 真田幸村(信繁)の銅像-安居神社 (2016-07-03 00:00)

Posted by nao道 at 23:27│Comments(2)史跡を巡る
この記事へのコメント
こんばんは リアルな地図で大阪を散歩した感じです。
でも ようく調べてますね。
すごい勉強してらっしゃるんですね。 頑張ってください。
Posted by FLORENTIA55 at 2010年10月29日 05:14
地図でよろしければ、また大阪の街を散歩して下さいね。
Posted by nao道 at 2010年10月30日 03:14
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。