2011年10月24日
五代友厚
五代友厚「天保6年(1835)~明治18年(1885)」
五代友厚は、薩摩藩士の次男として現在の鹿児島県に生まれ、幼名を徳助(通称は才助)といいました。藩校の造士館や長崎の海軍伝習所で学び、上海への渡航や薩英戦争(寺島宗則と共にイギリス海軍の捕虜となるが、後に横浜で釈放される)を経験した後、慶応元年(1865)から翌年にかけて、薩摩藩の留学生と共にヨーロッパ各国(イギリス・ドイツ・オランダ・ベルギー)を遊学しました。
明治維新となった明治元年(1868)、新政府の外国事務局判事や大阪府判事、会計官権判事などに任じられ、大阪に赴任しました。この時、大阪に造幣寮(現・造幣局)を設立しています。
翌年、政府の役人を退官し大阪で実業の世界に入ると、鉱山、紡績、製藍、海運、鉄道など数多くの事業に携わった他、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)などの設立に関与し、当時の衰弱した大阪の産業・経済の復活・発展に尽力しました。
五代の偉大な功績は、「大阪の恩人」、「東の渋沢栄一、西の五代友厚」などと称され、現在に伝えられています。

五代友厚顕彰碑
五代友厚氏は鹿児島の産。長崎の海軍伝習所に学び、上海に遣いした後欧州に渡り、諸国の新知識に接して帰朝。維新政府の参与に任ぜられ、外国事務局判事、大阪府判事等を歴任。外交内政に広く貢献した。
明治二年官を辞して大阪に居を定め、各地鉱山の開発、藍の精製に初まり、金銀分析所、活版所、貿易会社、鉄道会社、商船会社等多くの事業を興した。また社会公共にあっつても、明治十一年大阪商法会議所を設立。初代会頭として商工業界を指導したほか、造幣寮、米商会所、株式取引所、大阪商業講習所の創立に尽力した。
明治十八年九月二十五日、借しくも五十才にして病没したが、卓越した先見性と豪放、高潔の人柄をもって、よく大阪経済を衰微の極から救い、後の発展の礎を築いた功績は不滅の光彩に輝く。ここに氏の生誕百五十年、没後百年を記念し、その偉業を顕彰する。
昭和六十二年十二月 大阪商工会議所建之
上記、宮本又次先生による碑文には語の区切りが難しい部分がありますので、読みやすくするために敢て読点・句読点を勝手にふらせていただきました。
五代友厚顕彰碑
五代友厚氏は鹿児島の産。長崎の海軍伝習所に学び、上海に遣いした後欧州に渡り、諸国の新知識に接して帰朝。維新政府の参与に任ぜられ、外国事務局判事、大阪府判事等を歴任。外交内政に広く貢献した。
明治二年官を辞して大阪に居を定め、各地鉱山の開発、藍の精製に初まり、金銀分析所、活版所、貿易会社、鉄道会社、商船会社等多くの事業を興した。また社会公共にあっつても、明治十一年大阪商法会議所を設立。初代会頭として商工業界を指導したほか、造幣寮、米商会所、株式取引所、大阪商業講習所の創立に尽力した。
明治十八年九月二十五日、借しくも五十才にして病没したが、卓越した先見性と豪放、高潔の人柄をもって、よく大阪経済を衰微の極から救い、後の発展の礎を築いた功績は不滅の光彩に輝く。ここに氏の生誕百五十年、没後百年を記念し、その偉業を顕彰する。
昭和六十二年十二月 大阪商工会議所建之
-大阪大学名誉教授 日本学士院会員 宮本又次撰
日展書家 前田桃園書
日展書家 前田桃園書
上記、宮本又次先生による碑文には語の区切りが難しい部分がありますので、読みやすくするために敢て読点・句読点を勝手にふらせていただきました。
しかし、宮本又次先生は簡潔にスッとE文章を生み出され、サスガと言うほかありません。

阿倍野区の大阪市設南霊園に鎮座するお墓「従五位勲四等五代友厚墓」です。

ここに先の大阪商工会議所建立の顕彰碑があります。

大阪商工会議所の敷地内南部に建立された歴代会頭の銅像が、左から五代友厚(初代)、土居通夫(7代)、稲畑勝太郎(10代)の順に並んでいます。

Posted by nao道 at 14:14│Comments(0)
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