2012年06月06日
竹本義太夫の墓
浄瑠璃節の中興(慶安四年生、正徳四年九月十日歿 享年六十四才)
今日の浄瑠璃節は天才竹本義太夫の始めたものである。今日義太夫といえば浄瑠璃の別名の如くになっていることから考えても、其の偉大さが想像せられる。
義太夫は天王寺村(天王寺区茶臼山町堀越神社付近)の百姓家に生まれ、名を五郎兵衛といった。性来歌を唱うことが好きで、子供の時から何時も歌を唱うことに熱心であった。中年になって、当時浄瑠璃の大家であった京都の宇治加賀椽や井上播磨椽について浄瑠璃の稽古を始めたが、此等の浄瑠璃節がどうも自分の気に入らないので、昔からの謡曲や、文彌節や其他色々な唱の長所をとって、彼は独得の音節をつけて、所謂義太夫節というものを案出した。所が大阪市中の大人気を得、新派浄瑠璃の大家となって、遂に道頓堀に竹本座という新派浄瑠璃人形芝居を始めた。
竹本座が出来て間もなく、近松門左衛門が其の坐附の脚本書となったので、いよいよ竹本の名は近松の文名と共に天下に揚がった。義太夫は遂に朝廷に召されて御前に於いて義太夫節を聴え上げ、筑後椽の號を賜り且つ名を藤原博教と改むる宜旨を給わった。
これにより義太夫は約三十年間大坂芸界の牛耳を執り、当時六十余州に於ける芸界の権威であったが、晩年竹本座の座主を竹田出雲に譲って隠退した。
四天王寺境内の念仏堂の前に高弟豊竹上野の建てた碑がある。又義太夫は其の弟子の発起によって生国魂神社境内浄瑠璃神社に人形芝居七功神と共に祀られている。(大阪風土記より)
上述の太字で記した解説文は、お墓で頂いたペーパーを原文ママで写したものです。
延宝5年(1677)に独立し貞享元年(1684)には今の道頓堀・戎橋の南詰に竹本座を開き、作者に近松門左衛門を迎え、またその他にも三味線・人形使いの名手、経済面での協力者を得て「曽根崎心中」で空前の大ヒットを放ちました。

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Posted by nao道 at 08:08│Comments(0)
│古今芸能・文学
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