2011年01月09日
懐徳堂跡
享保11年の開学から明治2年の閉鎖まで
140年の間 大阪文教の中心であった
大正の初年に先儒の偉業を顕彰して記念会が設立されたので
当社も協賛しこの碑を建てた
撰文は記念会の創設者西村天囚先生
揮毫は懐徳堂第2代の学主たる
中井甃庵先生の玄孫中井天生先生である
-「懐徳堂旧阯の碑について」案内板より(原文ママ)
1724年(享保9年)、大坂の商人、道明寺屋吉左衛門(富永芳春)、三星屋武右衛門(中村良斎)、船橋屋四郎右衛門(長崎克之)、備前屋吉兵衛(吉田可久)、鴻池又四郎(山中宗古) の有力町人5人(五同志)が出資し三宅石庵を師として招き設立した私立の漢学塾です。
1726年(享保11年)江戸幕府の許可を受け半官立となりました。そのあと2代学主・中井甃庵、3代・三宅春楼、4代・中井竹山と続き、大坂文化・学芸の形成と商道徳の育成に貢献しました。
塾生は武士から庶民まで幅広く、席順も身分に関係なく、商人らの繁忙のこともにも配慮し遅刻や早退も自由でした。
門下生として富永仲基、山片蟠桃、草間直方がおり、自らの理性のみを武器とし、一切の偏見から自由な思想を展開した人たちを輩出しています。
この私塾は適塾(コチラ)と共に、現在の大阪大学の基になっています。
大阪を代表する企業、日本生命のビルは淀屋橋駅と連結していて、更にビルが空中でつながっているのです。
本館と南館・東館が空中で結ばれています。
以前、もう10年ほど昔の話になりますが、関学(KWANSEI-GAKUIN・かんせい学院大学)で開催されたノーベル賞フォーラムで大江健三郎の「懐徳堂から東海村まで」と題する公演をきいたのを思い出しました。

Posted by nao道 at 12:20│Comments(4)
│史跡を巡る
この記事へのコメント
ボン・ジョルノ
検定に向けて日々頑張っていらっしゃるかと思います。
大阪大学の始まりですか 興味深いです。
この塾の名前がまた良いと思いました。
検定に向けて日々頑張っていらっしゃるかと思います。
大阪大学の始まりですか 興味深いです。
この塾の名前がまた良いと思いました。
Posted by FLORENTIA55 at 2011年01月10日 16:23
愛珠幼稚園だとか古いビル巡りをする方でもこの場所はスルーしてるみたいで、一体なにを考えてるんだと言いたいですね。初詣で天満宮に行きましたが、すぐまえの相生楼の入口よこの生誕地の表示をスルーしている方も多かったです。(ご利益ないぞ!)
先日の答えは大和川付け替え工事失敗のあとです。和気清麻呂がやりかけたそうですね。
「聞き書大阪の食事」を読んでいます。昭和初期の食事、生活について書かれています。面白いですね。
検定参考図書ですがほかの県も読みたくなります。
なんでも横道にそれるほうで「鉄道」については関係ない?「民営鉄道の歴史がある景観Ⅰ~Ⅲ」をよんでいます。
先日の答えは大和川付け替え工事失敗のあとです。和気清麻呂がやりかけたそうですね。
「聞き書大阪の食事」を読んでいます。昭和初期の食事、生活について書かれています。面白いですね。
検定参考図書ですがほかの県も読みたくなります。
なんでも横道にそれるほうで「鉄道」については関係ない?「民営鉄道の歴史がある景観Ⅰ~Ⅲ」をよんでいます。
Posted by ダラカニ at 2011年01月10日 23:40
フロレンさん江
ボン・ジョルノ!
阪大が「かいとくどう」から
阪大の医学部は「てきじゅく」から
ですよ。
ボン・ジョルノ!
阪大が「かいとくどう」から
阪大の医学部は「てきじゅく」から
ですよ。
Posted by nao道 at 2011年01月11日 13:11
ダラカニさん江
さすがはダラカニはん、よう研究してはる!
そうでしたか・・・河堀口の川開削の失敗と関係がありそうですね。同じ事業だと思われます。
前の記事「こぼれぐち」はコチラからです。
http://otube.osakazine.net/e261124.html
さすがはダラカニはん、よう研究してはる!
そうでしたか・・・河堀口の川開削の失敗と関係がありそうですね。同じ事業だと思われます。
前の記事「こぼれぐち」はコチラからです。
http://otube.osakazine.net/e261124.html
Posted by nao道 at 2011年01月11日 13:27