2011年09月11日
天神さんの摂末社10 大将軍社
大将軍社
祭神
八衢比古神
八衢比売神
意冨加牟豆美神
久奈斗神
当宮地主神として孝徳天皇の御代難波長柄豊碕宮の四方に鎮守神として奉祀せらる
現地名南森町は大将軍の森と称せられた
祭日
一月一日拂暁
十二月晦日夕刻
-現地案内板より原文ママ
御祭神の名前は難読ですが、「八衢比古神=やちまたひこ」「八衢比売神=やちまたひめ」「意冨加牟豆美神=おほかむづみ」「久奈斗神=くなど」と読みます。
雑誌「大阪人8月号増刊・天神祭の歩き方地図」(高島幸次監修/大阪市都市工学情報センター)を主な参考文献にしています。ドーゾ。

この時代の人々にとって、古代における自然の浄化作用に守られた村落から都市化による不衛生な人工空間の拡大により、疫病が大きな脅威となっていました。
大化の改新後の白雉元年(650)に、孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(現・大阪市中央区法円坂)に遷都されました。
これ以後、毎年6月と12月の晦日には、都への四方からの進入路上で、「八衢比古神・八衢比売神・久那斗神」の三神を饗応し、「鬼魅(もののけ)」が都に入るのを防ぐ道饗祭(みちあえのまつり)が行われるようになりました。
当時の人々が最も恐れた鬼魅は疫病、特に疱瘡(天然痘)でした。道饗祭において、疫神である「八衢比古神」「八衢比売神」と、異境の悪神を避ける「久那斗神」を祀ったのはそのためでした。
そして、宮都の四方のうち最も重要な方角は西北でした。長柄豊碕宮が廃された後、北西の道饗祭の地には大将軍社が創祀され、現在に至るまで大将軍社では、右の三神に「於富加牟津見(おほかむつみ)神」を加えた四神を祭神とし、六月と十二月の晦日に道饗祭を斎行しています。
そもそも道饗祭の地に、なぜ大将軍社が祀られたのでしょう?
もともと、この地は星に神秘的な力を付託して崇拝する「星辰信仰」の盛んな地でした。そのことは、星合池・七夕池・明星池のように星辰信仰にちなむ池の名があったことからもうかがわれます。
そして、大将軍の神は、実は太白星(金星)の精でした。本来、太白星(金星)は、方位を司る「方伯神」であり、その定位置は西方とされていました。
延歴13年(794)に平安京が成立すると、人口の流入に伴い疫病への恐怖はさらに増していきました。延喜3年(903)、菅公が左遷の末、大宰府(現・福岡県太宰府市)に没した後に、凶作や雷などの天変地異が相次ぐと、疫病の恐怖と相まって、10世紀中ごろに天神信仰が広まります。それは大将軍社の疫神信仰を受け継ぎながら、管公を「天満大自在天神」として崇め、当時の様々な不安や恐怖の除去を祈願するものでした。
天歴元年(947)、平安京大内裏の北西に位置した大将軍八神社の前に一夜に千本の松が生え、夜な夜な光り輝くという奇跡があり、それを機に大将軍社の隣地に北野天満宮が創祀されました。
その2年後、先述した長柄豊碕宮の北西に祀られた大将軍社の社祠の前にも同様の事象がおこります。それは7本の松が一夜にして生え光るという平安京(京都)と似た現象でした。この附合は、都の北西の大将軍信仰を下地にして天神信仰が生まれた事を示していると言えます。
この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に縁の奇端として、同地に勅命を以て天満宮を鎮座されました。
天神さんの「疫神」としての神格やイメージは、他の怨霊神や雷神の神格と同様に、当初は疫病をもたらす「悪神」でしたが、やがて疫病を退散させる「福神」として祈願されるように変化を遂げました。
現在の大阪天満宮境内社のほとんどは本殿に倣って南向きに建てられ、大将軍社も例外ではありません。しかし、1番目の画像や3番目のそれからも分かるように、同社の階段・石畳だけが北西方向を向いています。これは創祀の故事を今に伝えるためであると言われています。

HPには次のようなたいへん興味深い記述があります。
大将軍社は、その後摂社として祀られるようになりましたが、大阪天満宮では現在でも、元日の歳旦祭の前に大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。大将軍社のいわれや歴史、信仰はここでは控えさせていただきます。
-大阪天満宮HPより抜粋
年の始まりに、本社のほうが摂社に「租」を納めるというのは神社として稀有な例ではないでしょうか。天神さんの周辺には興味深い、興味のある人にはオモロイもんがまだまだあります。
チョット休みましたが、これからはモリモリいきますので、これからも4946です。

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Posted by nao道 at 08:08│Comments(0)
│神社・仏閣