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O-TUBE By nao道
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 › O-TUBE › 古今芸能・文学 › 織田作之助-発見
2013年10月07日

織田作之助-発見

織田作之助-発見
新潮文庫「夫婦善哉」(織田作之助/新潮社)には、表題作の「夫婦善哉」をはじめ「木の都」「六白金星」「アド・バルーン」「世相」「競馬」という6編の短編小説が納められています。「世相」「競馬」以外は戦前に発表されたもので、解説を担当しているのは青山光二です。
この短編小説集は、オダサクの感じた当時の世相や、彼の愛した大阪の街、そして大阪人情、人間の切ない感情を見事に謳い上げています。
この本の扉には彼の来歴が短く記していたので、下に引用しました。


織田作之助-発見
大阪市の仕出し屋の家に生まれる。三高時代から文学に傾倒し、'37(昭和12)年に青山光二らと同人誌『海風』を創刊。自伝的小説「雨」を発表して注目される。'39年「俗臭」が芥川賞候補、翌年「夫婦善哉」が『文芸』推薦作となるが、次作「青春の逆説」は奔放さゆえに発禁処分となった。戦後は「それでも私は行く」をいち早く夕刊に連載、'46年には当時の世俗を活写した短編「世相」で売れっ子となった。12月ヒロポンを打ちつつ「土曜夫人」を執筆中喀血し、翌年1月死去。

織田作之助-発見
大阪に残るオダサクの足跡、飲食店や文学碑等を巡る「織田作之助-発見」、今回のオダサク特集はこれにてお終いです。
後にまた彼について、オダサクに関連するものがあればこの記事にリンクしていきたいと思っています。

織田作之助-発見
下記は、過去記事リンク集です。チョキ

2013/09/17
オダサク-僕と彼女と週末に
織田作之助原作のNHK土曜ドラマ「夫婦善哉」を観られた方は多いと思います。
週末(ホンマは祝日の月曜)に、今話題の織田作之助と彼の足跡をマイ嫁とともに巡ってみました。文学碑やゆかりの食など…
灯台もと暗しとはこのことです。見かけたことがあるのに無関心だった文学碑や、彼によって有名になったカレー、老舗のお…

2013/09/22
織田作之助文学碑-法善寺横丁
行き暮れて ここが思案の 善哉かな 作之助

小説家織田作之助は、大正二年十月、生国魂神社の近くで生まれた。彼は郷土大阪をこよなく愛し、終生大阪を離れず、出世作「夫婦善哉」をはじめ、大阪の市井人情を描いた名作を多く残したが、昭和二十二年一月、読売新聞に「土曜婦人」を連載中、胸患のため惜しくも三十四歳…

2013/09/27
織田作之助文学碑-口縄坂
口縄坂は寒々と木が枯れて白い風が走っていた 私は石段を降りて行きながらもうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った 
青春の回想の甘さは終わり 新しい現実が私に向き直って来たように思われた 
風は木の梢にはげしく突っ掛ていた織田作之助「木の都」より
織田作之助の33回忌にあたる昭和54年(1979)、…

2013/09/28
織田作之助来遊の地
戦前、現在の大阪キリスト教短期大学の敷地の南部あたりに「松虫花壇」という料理店があり、そこは広い前庭のある格調高い料亭として大阪市南部ではかなり有名でした。
昭和9年(1934)、当時三高(今の京大)三年生の時に、恋人の宮田一枝と一緒に訪れた地です。
織田作之助と一枝は後に、阿倍野筋2丁目にあった料亭「千と…

2013/09/30
織田作之助文学碑-富田林
織田作之助と富田林

「夫婦善哉」などの作品で昭和20年前後の文壇に活躍し、織田作(おださく)の名で大阪を代表する作家として親しまれた織田作之助は、その一時期を富田林で過ごしました。
親代わりのように作之助を愛し、面倒を見ていた長姉夫婦(竹中氏)が富田林に転居してきた昭和20年以降、作之助は、現在の本市寿…

2013/09/18
織田作之助の墓
天王寺区、上本町と真田山のちょうど中間くらいのところに織田作之助が眠る楞厳寺(りょうごんじ)があります。
楞嚴寺は、大きな屋根が連なる立派な構えをした浄土宗のお寺です。
山門をくぐるとすぐに本堂が目に入り、その手前左側に「織田作之助墓」と刻まれた不定形の墓石がそびえ立っています。背面には藤澤桓夫撰文…

2013/09/23
夫婦善哉-ぜんざい
夫婦善哉の由来は、明治十六年、浄瑠璃語りの竹本琴太夫こと「木文字重平衛」が副業ではじめたぜんざい屋の「お福」がはじまりです。おたやん(お多福)の「お福」の招き人形を据え、一人前を夫婦にたとえお盆に仲良くお椀二杯に分けて提供することで商売繁盛し「めをとぜんざい」で通るようになりました。
昭和十五年、「…

2013/09/24
名物カレー 自由軒
この二三日飯も咽喉へ通らなかったこととて急に空腹を感じ、楽天地横の自由軒で玉子入りのライスカレーを食べた。「自由軒のラ、ラ、ライスカレーはご飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」とかつて柳吉が言った言葉を想い出しながら、カレーのあとのコーヒーを飲んでいると、いきなり甘い気持が胸に湧…

2013/09/25
関東煮 たこ梅
「おでん」のことを今では、大阪でも「おでん」と呼んでいますが、昔は「おでん」のことを「関東煮(かんとだき)と言っていました。
その昔から有名だったのが、弘化元年(1844)創業の老舗「たこ梅」さんです。   
織田作之助「夫婦善哉」にも登場し、戦後は、作家の開高健や池波正太郎らも通っていたといいます。 

それではサヨウナラ。本


より大きな地図で 織田作之助マップ を表示


タグ :小説

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