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O-TUBE By nao道
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2016年07月27日

鴫野古戦場碑-鴫野・今福の戦い


大阪冬の陣で有名な鴫野・今福の合戦は、付近一帯の城東区域を主戦場としたものでした。
当時この辺りは、旧大和川の支流が分流していて、湿地帯や水田が多く戦闘には不向きでした。慶長19年(1614年)11月26日未明この辺りを防御していた西軍(大坂方)の軍勢を東軍(徳川方)佐竹義宣・上杉景勝6500人の軍勢が攻撃し戦闘が始まりました。戦いは双方の銃撃戦となり、合間に堤防上での激しい遭遇戦があり、29日まで一進一退を繰り返しました。このとき、援軍に来た木村重成や後藤基次(又兵衛)の軍勢との乱戦の末、東軍がこれを破ったと伝えられています。
明治・大正の有名な漢学者で、新聞記者でもあった西村時彦氏の撰になる碑が、大正9年(1920年)に城東小学校の校庭に建てられました。
-大阪市城東区HPより

大坂冬の陣、激戦の地、鴫野・今福には上杉・佐竹が登場します。夏の陣、道明寺・誉田では伊達が大坂方と戦いました。まさにビッグネームが躍動する大坂の陣というところでしょう。

次回は、寝屋川を挟んで北側、今福に遺る戦場跡をご紹介しましょう!
この夏は「真田『まる』」やるでー! 夏の陣やで~!

  
タグ :城東区


Posted by nao道 at 11:11Comments(0)史跡を巡る
2016年07月20日

大坂夏の陣 道明寺合戦記念碑


慶長20(1615)年5月6日、道明寺において豊臣秀頼軍と徳川家康軍が会戦した。これを道明寺の戦いという。別称として道明寺合戦という。
5月5日、後藤又兵衛基次や真田左衛門佐信繁、毛利豊前守勝永は道明寺での再会を誓い、盃を交わした。又兵衛は先行して藤井寺に着くと、既に徳川軍の3万4千は国分に着いていた。翌未明、小松山において又兵衛は単独で戦いを始めた。又兵衛軍2千8百。又兵衛は奮戦したといっても衆寡敵せず潰滅し戦死する。第二陣の薄田隼人正兼相等が道明寺に到着する。3千9百の兵は同じく討死する。豊臣軍は誉田林迄撤退する。し、第三陣の真田信繁は、伊達政宗の家臣片倉小十郎重綱(後に重長)と開戦。激戦となり豊臣軍は退く。その時殿信繁は徳川軍を嘲笑する。小松山の戦いと誉田林の戦いを総称して道明寺の戦いという。
この戦いに参戦した武将は、豊臣方、後藤基次、薄田兼相、真田信繁、毛利勝永、明石全登、山川賢信、渡辺糺、北川宣勝、伊木遠雄、細川興秋、大谷吉治、井上時利、山本公雄、槙島重利、福島正守、小倉行春、宮田時定等である。徳川方、水野勝成、本多忠政、松平忠明、伊達政宗、松平忠輝、堀直寄、松倉重政、奥田忠次、丹羽氏信、桑山元晴、桑山一直、本多利長、神保相茂、稲葉紀通、古田重治、菅沼定芳、分部光信、織田信重、徳永昌重、一柳直盛、西尾嘉数、遠山友政、堀利重、村上義明、溝口宣勝等である。
-現地案内板「碑文現代語訳」より

近鉄道明寺駅前に平成26年(2014)11月18日、道明寺まちづくり協議会により地域おこしの一環として建立されました。ちょうど大坂夏の陣から400年目のことでした。

この夏は「真田『まる』」やるでー! 夏の陣やで~!

  
タグ :藤井寺市


Posted by nao道 at 10:10Comments(0)史跡を巡る
2016年07月17日

後藤又兵衛基次之碑-道明寺・誉田の戦い

この石碑は柏原市の玉手山(玉手山公園)の山頂付近にあります。
NHK大河ドラマ「真田丸」では、哀川翔が演じる後藤又兵衛、どんな感じになるのか楽しみです。

後藤又兵衛としだれ桜

後藤又兵衛基次は、一五六〇年四月十日兵庫県加西市で、後藤基国の次男として生まれた。
槍の名人として、黒田孝高とその子長政に仕え、長政の九州博多へ着任に伴い一万六千石の大隈城主となった。その後、時代の変化につれ、自ら城を捨てて浪人となったが、一六一四年大坂冬の陣には、亡き秀吉の恩義に感じ、劣勢の秀頼に応援すべく豊臣方へ加勢し、木村重成とともに河内付近で徳川方と奮戦し、恐れられた。
一時、和睦となったが一六一五年再び大坂夏の陣が始まり、堀を埋められた大坂方は、徳川軍の大軍を河内の峠で迎え撃つべく、五月六日未明、又兵衛は自ら先陣として約三千の手勢を連れて、この山まで来たが既に徳川方の先陣二万余の軍勢は、国分へ到着していたので、大坂方の二番手薄田隼人等の軍を待てずに、戦いの火ぶたは切られた。又兵衛の軍は奮戦したものの、多勢に無勢、遂に又兵衛は敵弾に当たり、自決し側近の吉村武右衛門が介錯してその首は、この地の西北の片山・深田へ埋めさせた。翌七日大坂城は落城した。(五十六歳)
豪傑、後藤又兵衛が義に感じ花と散ったこの地に、「しだれ桜」を植えて、昔を偲び歴史を永く後世に伝えると共に、柏原市の名所にしたいと念ずるものである。
-現地「しだれ桜」の案内板より

この石碑の近くにしだれ桜が植樹されていて、その桜の案内板から原文ママで写しました。非常に解りやすくまとまった文章です。
桜は夏でしたのでさいていませんでしたが、また春におとずれたいです。

吉村武右衛門も又兵衛と同様、筑前福岡藩主黒田長政との確執から浪人となり、大坂城に入り夏の陣では先鋒として戦い、この地に散りました。

この夏は「真田『まる』」やるでー! 夏の陣やで~!

  
タグ :柏原市


Posted by nao道 at 08:08Comments(0)史跡を巡る
2016年07月16日

奥田忠次の墓-道明寺・誉田の戦い

後藤又兵衛(基次)に討たれた徳川家臣奥田忠次の墓です。右に「南都奉行奥田三郎右衛門忠次戦死の墓地」と刻まれた碑が建てられています。

玉手山古墳1号墳の上に小松家墓地があり、その一等地にこの墓が置かれています。
1号墳から見た2号墳です。結局両方、墓on墓でした。


大坂夏の陣と小松山の戦い

この付近は小松山と呼ばれ、慶長20(1615)年5月6日、豊臣、徳川最後の決戦となった大坂夏の陣で戦場となったところです。豊臣方は外濠・内濠を埋め立てられて裸城同然となった大坂城を出て河内、和泉の諸所に布陣しました。後藤又兵衛基次・薄田兼相率いる一軍は道明寺に進出して小松山を占拠しました。国分に到着した水野勝成、本多政明、伊達政宗を主力とする徳川軍との間で激戦が繰り広げられました。
翌7日には大坂城も落城し豊臣氏は滅びました。玉手山一号墳の頂には、徳川軍の先鋒として小松山に攻め上がり討死した奥田忠次と家臣5名の供養碑が建てられています。
-柏原市教育委員会

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タグ :柏原市


Posted by nao道 at 09:09Comments(0)史跡を巡る
2016年07月15日

小松山古戦場跡-道明寺・誉田の戦い

柏原市に玉手山という小山が南北に石川に沿うようにあります。
近鉄・道明寺駅から東へ石川を渡って300メートルほど歩くと急な坂道に出て、そこから徒歩でくねくね上っていくと柏原市民体育館にたどり着き、体育館と同時に円墳が2基(玉手山1・2号墳)、目にとまります。ここが小松山で玉手山の北端付近にあたり、大坂夏の陣で後藤又兵衛(基次)隊と徳川軍諸隊の戦いの舞台となりました。

玉手山1号墳です。

2号墳には墳墓の上にお墓が…墓on墓ということです。

大坂夏の陣で豊臣方は、大坂城の堀を全て埋められてしまったため、城を出て戦わざるをえない状況になっていました。徳川側は、大和方面から水野勝成を先鋒として、総大将に松平忠輝、後見役として伊達政宗など総勢およそ34000の兵で構成されていました。対する豊臣方は、後藤又兵衛らの前隊約6400人が、その後、毛利勝永、真田幸村ら後隊約12000人が大坂城を出発して道明寺村付近に集結、国分村の狭隘な地で幕府軍を迎え撃つことを取り決めました。道明寺・誉田の戦いは、現在の大阪府藤井寺市、柏原市、羽曳野市にまたがる広範囲で繰り広げられました。

小松山付近から河内・道明寺方面を望むとこんな感じです。小山と書きましたが、実際に登ると結構高い場所で涼しかったです。
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タグ :柏原市


Posted by nao道 at 19:25Comments(0)史跡を巡る
2016年07月03日

真田幸村(信繁)の銅像-安居神社

NHK大河ドラマ「真田丸」を観ていたら、真田幸村と大坂の陣についてもっと知りたくなりました。
今回は、夏に散った安居神社の真田幸村(信繁)の銅像です。
この神社は真田幸村終焉の地とされています。神社近くの茶臼山に陣取った幸村が境内で休息をとっていたところを襲われたということになっています。

兜をとって、何かすごくすっきりした、爽やかな表情のように見えます。

安居神社では、毎年こどもの日(5月5日)に「幸村まつり」が執り行われています。長野県の上田城甲冑隊、地元大阪城甲冑隊が参加して祭りを盛り上げてくれます。大泣き

安居神社についてはコチラからから、幸村まつりについてはコチラからドーゾ!フンッ

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タグ :天王寺区


Posted by nao道 at 00:00Comments(4)史跡を巡る
2016年07月02日

真田幸村(信繁)の銅像-三光神社

冬に勝った三光神社、夏に散った安居神社に、真田幸村(信繁)の銅像が建てられています。
NHK大河ドラマ「真田丸」を観ていたら、真田幸村と大坂の陣についてもっと知りたくなりました。
大阪には幸村終焉の地、古戦場跡、陣地跡など、また主家である豊臣家ゆかりのものがたくさんあります。

冬の陣は徳川方を押し返したので、とりあえず勝ったということで、非常に勇壮に凛々しくグワッという感じです!
隣に真田の抜け穴が…ニコニコ

次回は大坂夏の陣で幸村終焉のとなった安井神社に建てられた銅像を見てみましょう。ワーイ

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タグ :天王寺区


Posted by nao道 at 21:46Comments(0)史跡を巡る
2016年07月01日

史跡 真田の抜穴跡-三光神社

天王寺区のいわゆる真田山という丘陵に三光神社があるのは前の記事で書きましたが、この神社の最も有名な「真田の抜け穴」を今回はみていただきましょう。
伝説の抜け穴と言うよりは、いちびり精神が遺した穴、これを大阪では思い切って「史跡」と呼んでいます。えーやん!ワーイ

本殿に続く階段の左横側に「真田の抜け穴」と呼ばれる石室状の横穴が残されていて、その手前に軍配を手に勇壮な真田幸村(信繁)の銅像が建っています。

何年か前(忘れました)に、この抜け穴に一般の人が入れるという企画があり大盛況だったようです。本城に続くというのは大阪城に続くという意味でしょうけど、まあ無理やわなというのが現実的な見方だと思います。
それでも歴史というのは、史実というのは、覆されたりするものです。人の探求心は、既成概念を簡単に「まる」にするのでしょう。それが、この史跡から感じとられたサイコーの「まる」感でした。赤面

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タグ :天王寺区


Posted by nao道 at 00:00Comments(0)史跡を巡る