
2012年04月17日
神馬塚
神馬塚
住吉大社に奉仕する神馬(しんめ)の墓なり。
古来、田辺や山坂の地は住吉大社の御牧場と定められ、当地に住した神馬舎人、橘氏によって神馬が奉養された。
橘(たちばな)氏は朝夕に田辺と住吉大社を往還し、神馬を住吉大社まで葺き連れ、白馬を見ると年中風邪を祓い患いが無いといわれる。その通り道は、御馬道(おんまみち)と称し、神馬をのぞく車馬の通行が憚られた。
神馬の退落(死亡)に際しては、ただちに神馬塚に埋葬された。神馬塚および神馬御厩は北田辺・南田辺のそれぞれ二箇所あったが、現在は当地の北塚のみが現存し、歴代神馬が祀られている。
住吉大社
しかし、江戸時代の住吉信仰はむしろ民間により支えられ、神馬の寄進は当時財力が旺盛であった木炭の協同組合によって、維持されていたようです。
なお、神馬の飼育や没後の管理は伝統的に田辺郷の住人に任され、その厩舎は「性應寺」の北東隅と、「北田辺郵便局」の北隣にあったとされますが、現在その地は共に駐車場になっています。
飼育は北と南にそれぞれ3名の舎人(トネリ)が任命されていたが、男子系の一子相伝のために、次第にその後継者が減少し、明治の末期には橘忠三郎一家のみとなっていました。
神馬の遺骨(たてがみ)は山坂1-11にある「うどんやかぜ一夜本舗」の西側、JR阪和線に沿った一角に、末廣氏によっ丁重に現在も祀られています。
-大阪市HPより抜粋
一番上の画像の左側に「うどんや風一夜藥」が見えますが、これはうどん屋さんではなく薬屋さんです。なんというか、うどん屋でもなく、薬屋といってもドラッグストア的なものではなく…またイツカ調べて詳しく書いてみます。
その時はまた4946です!

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2012年03月14日
玉造稲荷神社の末社
厳島神社
御祭神
市杵嶋姫神
市杵嶋姫神(いちきしまひめのかみ)は天照大御神と素盞嗚尊が天の安河(やすかわ)で相対し、誓約(うけい)をされたときに生まれた女神。
大御神(おおみかみ)が尊(みこと)の十拳剣(とつかのつるぎ)を取って三つに折り、水ですすぎ、息をかけられたところ、この息が霧となって散るときにうまれられたともいわれ、美人の誇れ高く、弁天さまともみたてられている神である。
古来陸上航海安全の神として霊験あらたかであり別名、狭依毘売命(さよりひめのみこと)、中津嶋姫命(なかつしまひめのみこと)ともいわれる。
境内の池は白龍池と呼ばれ、白龍の観音を頂き出現されたところで、雨乞いに霊験ありと伝えられている。
なお、もとは社のそばに聖徳太子作の十一面観音を祀る観音堂があった。
万慶稲荷神社
御祭神
宇迦之御魂神
徳川時代の大坂城内各屋敷に祀られていた多くの稲荷神を当神社境内に戸田大隈守により一社に集め、享保年間に遷座された社。
宇迦之御魂神は「うがのみたまのおおかみ」と読む。
新山稲荷神社
御祭神
宇迦之御魂神
寛政11年、当時の大坂城代・松平輝和候により祀られていた社であり、城代屋敷であった天王寺区清水谷東之町にあったのを、明治40年当社に遷座合祀された。
上の太字で記した解説は、玉造稲荷神社のHPから抜粋させて頂きました。
玉造稲荷神社HPはコチラからドーゾ。

市杵嶋姫神とは広島・宮島の厳島神社の御祭神でもあります。
厳島神社と言えば平家、と言えば…NHK大河ドラマ「平清盛」は視聴率もイマイチで、評判もあまり良くないようですね。

僕は毎週欠かさず観ていますけど…

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2012年03月12日
玉造稲荷神社
蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承が残っています。
また、豊臣家・大坂城との関わりは深く、秀吉が稲荷神を崇敬していたことから玉造稲荷神社は、大坂城の鎮守神として祀られていました。
大坂城における神事の多くはこの神社神職が執り行い、慶長8年(1603)には豊臣秀頼から五百石の水田(現・大阪市天王寺区玉造本町)が当神社へ朱印地として寄進されました。
伏見稲荷大社のご分霊を直接祀らない稲荷社で、秀吉が稲荷の信仰者であったことと伏見の住民を当玉造の地に住ませた関係で稲荷神と崇められたと考えられています。
豊臣秀頼公(慶長8年3月吉日銘)奉納鳥居
大坂夏の陣、慶長20年(1615)また第二次世界大戦、昭和20年(1945)6月1日と二つの戦禍を乗り越えた参りましたこの鳥居は平成7年(1995)1月17日早朝の阪神・淡路大震災により基礎に損傷を生じ、建立以来400年間「大坂城の守護神」として、その歴史的シンボルに幕を閉じここに保存することとなりました。
-現地案内板より原文ママ
豊津稲荷神社と呼ばれていた頃の図です。
秀頼公胞衣塚(よなづか)大明神
文禄二年(一五九三)、豊臣秀頼公御誕生の砌(みぎり)、公の胞衣(えな)(大阪ではヨナと呼び淀殿の胎盤・胎児を包んでいる膜など)を埋め申したのが大阪城三の丸に当たる当玉造の地であった
以来、豊臣家の恩義を忘れぬ地元の人々により世々祀り継がれてきたが、昭和二十年の戦火による焼損のため、上町一丁目(もと寺山町)から玉造一丁目(もと東阪町)へ遷座申し当社宮司が斎主となり奉祭し、来たったのである
さて、このたび大阪築城四百年を吉兆とし大明神を公ゆかりの当社境内に遷座申すこととなった
なお、当地の民俗に、みどり子の夜泣き、子の悩みを封ずるのに、当大明神のほとりに生ずる笹をご祈祷の上もらい受け、子の寝床の下に敷けば霊験あらたかであると信ぜられている
昭和五十八年八月
昭和五十七年大阪市民表彰(文化功労)受賞 中村浩「識」
昭和五十七年大阪市民表彰(文化功労)受賞 中村浩「識」

実に見どころの多い神社ですね。

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2012年03月10日
玉造稲荷神社の由緒
主神
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
相殿
下照姫命(したてるひめのみこと)
稚日女命(わかひるめのみこと)
月読命(つくよみのみこと)
軻偶突智命(かぐつちのみこと)
創祀は垂仁天皇18年秋(紀元前12年)とされ、古代には「日本書紀」に記された玉作部の居住地にもなりました。
その後、物部氏と仏教受容問題を争った聖徳太子(廐戸皇子)は、当神社において戦勝を祈り、戦乱後は自ら観音堂を当地へ建立されたと伝わっています。一方、近世に至っては豊臣家が大阪城の鎮守神として祀り、その後、徳川の世に入っても大坂城代着任の際、当神社に参拝し定紋の提灯を奉納する等、その厚い信仰は引き継がれました。明治期から戦前にかけて、全国の神社が国家管理となり、社格も当神社は「府社」となりました。
平成元年(1989)には「創祀二千年祭」を挙行しました。

豊臣秀吉は稲荷神を崇敬し、玉造稲荷神社を大坂城の鎮守神として祀った。また、大坂城における神事の多くはこの神社神職が執り行い、慶長8年(1603)には豊臣家より五百石の水田(現・大阪市天王寺区玉造本町)が当神社へ朱印地として寄進された。伏見稲荷大社のご分霊を直接祀らない稲荷社で、豊臣秀吉公が稲荷の信仰者であったことと伏見の住民を当玉造の地に住ませた関係で稲荷神と崇められたと考えられている。
上記は玉造稲荷神社HPより抜粋しました。
やっぱり…お稲荷さんにしては、朱い鳥居と神使の白狐がなく何か不思議な印象を受けました。
しかし、主神として祀られる宇迦之御魂大神は、稲荷系の本山・伏見稲荷神社と同じです。

次回は、この神社で最も有名な鳥居について書いてみます。4946です!
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稚日女命(わかひるめのみこと)
月読命(つくよみのみこと)
軻偶突智命(かぐつちのみこと)
創祀は垂仁天皇18年秋(紀元前12年)とされ、古代には「日本書紀」に記された玉作部の居住地にもなりました。
その後、物部氏と仏教受容問題を争った聖徳太子(廐戸皇子)は、当神社において戦勝を祈り、戦乱後は自ら観音堂を当地へ建立されたと伝わっています。一方、近世に至っては豊臣家が大阪城の鎮守神として祀り、その後、徳川の世に入っても大坂城代着任の際、当神社に参拝し定紋の提灯を奉納する等、その厚い信仰は引き継がれました。明治期から戦前にかけて、全国の神社が国家管理となり、社格も当神社は「府社」となりました。
平成元年(1989)には「創祀二千年祭」を挙行しました。
-現地碑文より
上記は玉造稲荷神社HPより抜粋しました。
やっぱり…お稲荷さんにしては、朱い鳥居と神使の白狐がなく何か不思議な印象を受けました。
しかし、主神として祀られる宇迦之御魂大神は、稲荷系の本山・伏見稲荷神社と同じです。

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2011年11月07日
七五三参り-住吉大社

そうか…七五三の季節でした。
お子さんの健康と成長を祈願し神社に参拝するE行事です。

男児は3歳と5歳、女児は3歳と7歳の年の11月に神社へ参拝してお祝いする慣習が今でも残っています。住吉大社では、数え年でご案内させていただいていますが、満年齢で行なう人も少なくありません。
本来は11月15日ですが、15日前後の日曜日など、ご家族のご都合を優先させている人が増えています。当社では、11月中の毎日受付しています。

記念撮影をして、神社に参拝して、千歳飴をもらったら、あとはこのようにお椀で大海原に乗り出して下さい。


本来は11月15日ですが、15日前後の日曜日など、ご家族のご都合を優先させている人が増えています。当社では、11月中の毎日受付しています。
-住吉大社HPより抜粋


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「おおさか遊ぶろぐ」でこの記事をチェック!
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2011年10月08日
参道もいろいろ-大阪天満宮
参道というのは、いろいろあります。そこで、「天神さん」特集の最後に、もう一つの参道をご紹介しましょう。
自分で言うのもナンですが、この参道のヤヤコイところはこのA地点にまず来なければなりません。結局、ココに至るまでに天神橋筋商店街を通る人もあれば、天神橋を渡ったり、はるか梅田から歩く羽目になる人もおられるでしょう。
私・不肖nao道などは天神さんからここまで歩いてきました。本末転倒とはこのことです。

ここが出発点です。何やらイロイロと説明が書かれています。旧町名がドーのコーの…老松がドーのコーの…ここでは無視していきましょう。そして左の細い道の方へ入っていきます。


気付きましたか?小さな橋の親柱が、道路の片隅にポツンと高速の下の道に対角線上に2基立っています。
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大きな地図&ストリートビューでお楽しみください。

いろいろと僕なりに巡ってみた「天神さん」特集は今回で終わりです。いろいろとありがとうございました。あーとー!


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2011年09月28日
祖霊社-星合の池
祖霊社
祭神
大阪天満宮祀官祀職
氏子崇敬者の祖霊
例祭
仲春及び仲秋
由緒
当社は菅公御神退千八十年(昭和五十七年)を記念して御神縁の深い祖霊のご霊符の業績を顕彰し子孫の繁栄を記念するため建立奉祀した
-現地案内板より原文ママ
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2011年09月25日
川崎東照宮の神輿蔵-星合の池
川崎東照宮の神輿蔵
元和二年(一六一六)に徳川家康が没した翌年現在の造幣局から滝川小学校あたりに川崎東照宮が建立されました
明治六年(一八七三)に廃社された後にその神輿蔵は当宮に移築されました
軒瓦に葵の御紋が見えます
-現地案内板・原文ママ

しかし、明治新政府発足以降、反徳川の風潮が高まる明治6年(1873)、川崎東照宮は廃社となってしまいます。その遺構の一部である神輿蔵がこの地に移築されました。


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2011年09月19日
星合の池
☆星合の池
天暦三年(九四九)に天満宮が御鎮座になった時、この池水に霊光が映ったと伝承されている。天正二年(一五七四)の石山軍記に「天満山の北、明星の池、星合の池の間、少し北に属し、織田信長本陣を布き」と録しているから、少なくとも千年以上の歴史を持つ古池である。
なお、付近に七夕池、明星池、夫婦池等どが明治年間まで現存してい事は昔「難波埼」の付近に残った沼沢の名残であると思われる。
昭和の初めまで池には「宇賀の社」があり、紅梅紫藤が咲き乱れ、付近には歌舞伎を常打とした天満八千代座、浪花節の国光席、吉本興業発祥となった天満花月吉川館などの寄席が隣接していた歓楽街であり、極めてにぎやかであった。
池に架かっている「星合橋」は一名「愛嬌橋」とも言いう。当時適齢者の見合いが行われたからである。また、池畔にあった白米稲荷に因んだ「いなりずし」は、参詣者に賞味され、有名であった。
-大阪天満宮

イチオウ説明しておくと、この池は大阪天満宮の境内ではなく、境外北側の細い道を一本挟んだ場所にあります。境内本殿の裏から白米稲荷の鳥居を出るか、または大工門を出て繁昌亭を通りすぎてすぐの道を東(天神橋筋商店街と反対)に右折して下さい。分かりにくい場合は、下の地図を「大きな地図」で見て下さい。
それより、橋のたもと(一番上の写真)に何やら気になる人には気になる橋名板(銅板)がありますね。次回はこの「天神橋」の橋名板について書きます。4946です。

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2011年09月11日
天神さんの摂末社10 大将軍社
大将軍社
祭神
八衢比古神
八衢比売神
意冨加牟豆美神
久奈斗神
当宮地主神として孝徳天皇の御代難波長柄豊碕宮の四方に鎮守神として奉祀せらる
現地名南森町は大将軍の森と称せられた
祭日
一月一日拂暁
十二月晦日夕刻
-現地案内板より原文ママ
御祭神の名前は難読ですが、「八衢比古神=やちまたひこ」「八衢比売神=やちまたひめ」「意冨加牟豆美神=おほかむづみ」「久奈斗神=くなど」と読みます。
雑誌「大阪人8月号増刊・天神祭の歩き方地図」(高島幸次監修/大阪市都市工学情報センター)を主な参考文献にしています。ドーゾ。

この時代の人々にとって、古代における自然の浄化作用に守られた村落から都市化による不衛生な人工空間の拡大により、疫病が大きな脅威となっていました。
大化の改新後の白雉元年(650)に、孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(現・大阪市中央区法円坂)に遷都されました。
これ以後、毎年6月と12月の晦日には、都への四方からの進入路上で、「八衢比古神・八衢比売神・久那斗神」の三神を饗応し、「鬼魅(もののけ)」が都に入るのを防ぐ道饗祭(みちあえのまつり)が行われるようになりました。
当時の人々が最も恐れた鬼魅は疫病、特に疱瘡(天然痘)でした。道饗祭において、疫神である「八衢比古神」「八衢比売神」と、異境の悪神を避ける「久那斗神」を祀ったのはそのためでした。
そして、宮都の四方のうち最も重要な方角は西北でした。長柄豊碕宮が廃された後、北西の道饗祭の地には大将軍社が創祀され、現在に至るまで大将軍社では、右の三神に「於富加牟津見(おほかむつみ)神」を加えた四神を祭神とし、六月と十二月の晦日に道饗祭を斎行しています。
そもそも道饗祭の地に、なぜ大将軍社が祀られたのでしょう?
もともと、この地は星に神秘的な力を付託して崇拝する「星辰信仰」の盛んな地でした。そのことは、星合池・七夕池・明星池のように星辰信仰にちなむ池の名があったことからもうかがわれます。
そして、大将軍の神は、実は太白星(金星)の精でした。本来、太白星(金星)は、方位を司る「方伯神」であり、その定位置は西方とされていました。
延歴13年(794)に平安京が成立すると、人口の流入に伴い疫病への恐怖はさらに増していきました。延喜3年(903)、菅公が左遷の末、大宰府(現・福岡県太宰府市)に没した後に、凶作や雷などの天変地異が相次ぐと、疫病の恐怖と相まって、10世紀中ごろに天神信仰が広まります。それは大将軍社の疫神信仰を受け継ぎながら、管公を「天満大自在天神」として崇め、当時の様々な不安や恐怖の除去を祈願するものでした。
天歴元年(947)、平安京大内裏の北西に位置した大将軍八神社の前に一夜に千本の松が生え、夜な夜な光り輝くという奇跡があり、それを機に大将軍社の隣地に北野天満宮が創祀されました。
その2年後、先述した長柄豊碕宮の北西に祀られた大将軍社の社祠の前にも同様の事象がおこります。それは7本の松が一夜にして生え光るという平安京(京都)と似た現象でした。この附合は、都の北西の大将軍信仰を下地にして天神信仰が生まれた事を示していると言えます。
この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に縁の奇端として、同地に勅命を以て天満宮を鎮座されました。
天神さんの「疫神」としての神格やイメージは、他の怨霊神や雷神の神格と同様に、当初は疫病をもたらす「悪神」でしたが、やがて疫病を退散させる「福神」として祈願されるように変化を遂げました。
現在の大阪天満宮境内社のほとんどは本殿に倣って南向きに建てられ、大将軍社も例外ではありません。しかし、1番目の画像や3番目のそれからも分かるように、同社の階段・石畳だけが北西方向を向いています。これは創祀の故事を今に伝えるためであると言われています。

HPには次のようなたいへん興味深い記述があります。
大将軍社は、その後摂社として祀られるようになりましたが、大阪天満宮では現在でも、元日の歳旦祭の前に大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。大将軍社のいわれや歴史、信仰はここでは控えさせていただきます。
-大阪天満宮HPより抜粋
年の始まりに、本社のほうが摂社に「租」を納めるというのは神社として稀有な例ではないでしょうか。天神さんの周辺には興味深い、興味のある人にはオモロイもんがまだまだあります。
チョット休みましたが、これからはモリモリいきますので、これからも4946です。

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