
2011年09月03日
天神さんの摂末社9 蛭子遷殿
蛭児遷殿
祭神
蛭児大神
祭日
一月十日
由緒
常は本社相殿に奉斎されている
一月十日には遷座ののち十日戎祭が斎行される
御祭神蛭児大神は戎・恵比須などとも書き福の神
漁民・商家の守護神として崇敬される
-現地案内板より原文ママ
今の正式な表記は蛭子遷殿(えびすせんでん)となっていますが、この非常に古い立看板には蛭児遷殿と書かれています。
蛭児、これを「えびす」と読んでもおかしくはないのですが「ヒルコ」と読んでも不思議ではありません。何故ならヒルコとエビスは非常に興味深い関係があるからです。
ソーは言ってみたもののなかなか難しいので興味のある方はコチラからWikipediaでドーゾ。
ちなみに、遷殿というのは本殿から神様がその時だけ遷ってこられるお社のことを指します。こちらの場合、大阪天満宮本殿から蛭子遷殿にいらっしゃるということです。
ソーは言ってみたもののなかなか難しいので興味のある方はコチラからWikipediaでドーゾ。
ちなみに、遷殿というのは本殿から神様がその時だけ遷ってこられるお社のことを指します。こちらの場合、大阪天満宮本殿から蛭子遷殿にいらっしゃるということです。
復活した十日戎は新しく「天満天神えびす祭」と命名され、毎年1月10日・11日に改修された蛭子遷殿で斎行されています。
私は今まで「~戎」にお参りしたことが一度もありません。サラリーマンしかしたことがないからかもしれません。
この北区付近で有名な堀川戎さんの境内に入ったコトはあるんですが、誰も笹をもっていない季節でした。
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この北区付近で有名な堀川戎さんの境内に入ったコトはあるんですが、誰も笹をもっていない季節でした。

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2011年08月31日
天神さんの鬼瓦
鬼瓦
明治三十五年に葺かれた当宮参集殿の鬼瓦
菅原道真公御神退千七十五年(昭和五十二年)に際し
銅板にお屋根葺替えにより
昭和62年3月ここに安置す
-現地案内板より原文ママ
かなりデカイです。大阪天満宮境内西側「菅家廊下」の北入口の近くに置かれています。

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2011年08月29日
天神さんの菅家廊下
残念ながら館内(廊下)は少し暗かったので写真がありません。ココでは紹介できませんので、是非実際に歩いて菅公の歴史に触れてみて下さい。スンマヘン。

「菅家廊下」とは?何故この展示コーナーが廊下の形式を採っているか疑問に思いませんか?

実は、京都・菅家の廊下に由来します。もともと菅家書斎の山陰亭で講義が行われていましたが、後に門人の増加に対応するために、幅が広く仕切りなどや畳などを用いて部屋の代わりとしても用いられていた廊下に私塾を移して講義を行うようになっていたようです。それが後に菅家廊下と呼ばれるようになりました。
明日からは、菅家廊下の周辺にあるオモロイものをみて行きましょう。4946です。
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明日からは、菅家廊下の周辺にあるオモロイものをみて行きましょう。4946です。

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2011年08月27日
大阪天満宮 蛭子門
蛭子門の由来
当宮には六つの門がありそれぞれに独自の用途と由来を持っている
当門は入ってすぐ 左手に「戎社(蛭児社)」が祀られていたことから「戎門」と呼ばれてきた
江戸時代の「戎社」では 毎年の正月・五月・九月の十日に「蛭児尊遷殿神事」を斎行しておりこの年三回の「十日えびす」には数多くの参拝者が当門を利用した
その後 「戎社」には境内西北に移されたが「戎門」の名は変わらずに今に伝えられている
昨年正月に「十日えびす」を復興をしたのを記念してその由来をここに記す
-平成二十年正月吉日 宮司 寺井種伯
また、車での参拝または御用の際はこの門しか利用できません。なので蛭子門の前は駐停車出来ません(他の門前にもダメですけどネ)ので4946です。

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2011年08月26日
天神さんの摂末社8
白太夫社
祭神
渡會春彦
祭日
三月十二日
由緒
勧請年月は詳かではないが御祭神は大宰府の配所で道真公の側近に仕えたといわれている
-現地案内板より原文ママ
天神さんには牛や梅花がつきものです。そして、実はこの渡會春彦・白太夫さんもつきものなんです。
渡會(わたらい)氏は神宮外宮の豊受皇大御神に奉仕していました。今の外宮の別称が「渡會宮」と言われているのもその名残のようです。渡會春彦は菅原道真のもり役・従者として若い頃から仕え、その頭髪が真白であったことから白太夫と呼ばれていました。
この神社も大阪天満宮南西の蛭子門から境内に入るとスグにみることができます。

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2011年08月25日
天神さんの摂末社7
老松神社
祭神
住吉大神
神功皇后
祭日
五月初旬
由緒
古く神功皇后九州筑紫より帰航の折 巨松に風波の難を避け樹下に社を建てたのが始まりと伝う
のち貞観二年(八六〇)白砂青松の地(旧老松町三丁目)を卜し 老松神社を建立す
平成二年六月吉日大阪天満宮境内に遷座す
-現地案内板より原文ママ
現在の大阪市北区西天満の一部は、かつて老松町(おいまつちょう)という町名でした。天神さんの周辺の町名もかなり失われていています。北区や旧南区には旧町名顕彰碑が大阪市によって多く建てられていますが、やはり少し寂しいような気がします。
特にそこに住んだこともないのに、何故かそんな気がします。
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2011年08月24日
天神さんの牛像
スエヒロの創業者・上島歳末の郷里・但馬にちなみ、黒毛和牛の起源である但馬牛を模して黒御影石に刻まれた等身大の臥牛像の下には、一万頭の鼻骨を納めて牛への供養の気持ちを表しています。
天神さんと牛の関係を簡単に纏めてみました。

天神さんと牛の関係は古くから深く、菅原道真公は承和12年(845)、乙丑の年に出生し、延喜3年に没しますが、轜車(じしゃ)を「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言で、その場所を墓所と定めました。その場所が、都府楼の丑寅(北東)の方角であったなどの多くの牛との関わりや伝承があり、天神信仰には牛がつきものとなりました。
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2011年08月17日
天神さんの神輿
「鳳神輿」「玉神輿」について
天神祭は、平安時代中期の天暦五年(951)に始まったと伝えられています。
十世紀末京都で御霊会が行われた際に神輿二基が出御した故事にならって、天神祭にも鳳神輿(おおとりみこし)と玉神輿(たまみこし)の二基が登場するようになったようです。
それまでの神輿は、天保八年(1838)二月の「大塩平八郎の乱」で灰塵に帰し、今に伝わる神輿は天保十一年に御旅所のある江ノ子島東町の天満屋清兵衛らの寄進によるものです。
現在では、鳳神輿は菅南連合(菅南八町会)、玉神輿は大阪市中央卸売市場本場の業者の方々が講を結成し、陸渡御、船渡御に参加奉仕を続けています。
「鳳神輿」には野見宿彌(のみのすくね)の御霊
「玉神輿」には手刀雄命(てじからおうのみこと)の御霊がお乗りになっています。
-現地案内板より
鳳輦とは、菅原道真公の御神霊を奉安する乗り物のことで、天神祭・船渡御の船列の中でも、御鳳輦奉安船(ごほうれんほうあんせん)だけは特別な神々しさを演出しています。賑々しい群衆も、御鳳輦の通過する際には本殿に向かうのと同じように参拝するということです。
忘れていましたが、一番上の神輿の写真、右が「鳳神輿」左が「玉神輿」となっています。
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忘れていましたが、一番上の神輿の写真、右が「鳳神輿」左が「玉神輿」となっています。

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2011年08月16日
鷽(うそ)の話
正直の神としての天神信仰から生まれ、平素の嘘を菅公の愛鳥「鷽鳥」に託し誠に替え、罪穢れを祓いやり福を招く神事として有名です。毎月25日は菅原道真公にとって御縁の日です。1月25日は菅公左遷の命が下った日で、この日を追憶し菅公の霊を慰めるために、愛でられた梅の小枝を神饌に添えてお供えすることから梅花祭が起こり、年の始めの御縁日であることから、この祭を「初天神」と言い12月25日を終(しまい)天神と言います。
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2011年08月13日
天神さんの塚
針塚
大阪和服裁縫協同組合と日本和裁士会大阪府支部により大正15年(1926)に針塚が建立されて以来、古針を軟らかいこんにゃくに刺すことで長年使われた針を楽をさせ、供養する「針供養祭」が今でも毎年2月に執り行われています。会場は大阪天満宮境内の吉備社前から針塚に渡る本殿の北西部となります。
吉備社についてはコチラからドーゾ。
筆塚
筆に感謝し、その上達を願う筆塚です。
塚の前の老筆函と書かれている箱に使い古した筆を納め、その筆は神社で供養されます。いかにも学問の神様、天満宮らしい塚です。道修町という文字が判読しづらいですが、道修町と筆の関連はあるようです。道修町は薬の町として有名ですが、特に福沢諭吉も学んだ適塾があることでも知られています。
裁縫に針、学問に筆、どちらも欠かすことのできない道具です。
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