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2010年11月10日

平野橋

平野橋
江戸時代平野橋界隈は、東に神明神社、西に御霊神社があり、その門前盛り場として賑わっていました。定期的に開かれる夜店は当時の大阪名物のひとつとされていました。今に残る町名、平野町の名前の由来は定かではありませんが、御霊神社の祭神早良親王が京都の平野神社に祀られていたことからこの界隈が平野とよばれるようになったとされています。
「地方役手鑑」などの資料によると平野橋は橋長61.8m、幅員4.1mとなっており、明治31年(1898)の架け替え時の資料にもほぼ同規模の橋であったとの記録が残されています。
現在の平野橋は昭和10年につくられたもので、逆ランガー桁とよばれるとても珍しい形式で、この形式の適用は当時世界で初めてでした。アーチ部材が細くスマートな印象を与える橋です。



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宮本又次船場/ミネルヴァ書房」によると、平野町の夜店は、西横堀川(今の四ツ橋筋あたり)から内平野町まで続き、飲食店、子供用品や台所用品、古道具を扱う店などで非常に賑やかだったそうです。最盛期は明治の終わり頃で、堺筋市電が走り、内平野町の日中神明がなくなると荒れ始め、平野町通りが軒切りによって道幅が拡張されると、さらに寂れていきました。

昔の町というのは、道を挟んで向い合った通りが町の単位でした。言葉で説明するより下の図で見ていただくとすぐに理解できます。道幅が狭かった時代は背中を向けている家より通りの向かいの家との付き合いのほうが大切で親しみがあったのでしょう。
顔と顔を突き合わせるのが昔の町のあり方でした。
下の図は、こんな感じというイメージです。実際に現行の住所は道で囲まれた部分です。4946!です。


より大きな地図で 例えば昔の町割り を表示

平野橋
橋長:57.00m
幅員:12.70m
形式:アーチ橋
完成:昭和10年
行政区:中央区
河川名東横堀川
アクセス大阪市営地下鉄堺筋線北浜駅4番出口徒歩8分


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タグ :中央区

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Posted by nao道 at 11:51│Comments(0)八百八橋
 
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