
2012年04月27日
フジカワ画廊
フジカワビル(現在の正式名称)は、村野藤吾が画廊のために設計したというだけあり見どころは多いのですが、その後の村野作品の小規模オフィスビルの典型として、ガラス、ガラスブロック、ベランダの組み合わせにより一つのスタイルを確立した作品とされています。
堺筋のビジネス街に、その立地にどのような佇まいがふさわしいのかが追求され、そしてデザインされたのがこのガラスブロックとベランダが特徴的なファサードです。
1・2階北側は外観では全く想像できませんが、画廊スペースとなっていて約37坪の吹き抜け空間とロフトを備えています。
大阪市中央区瓦町1-7-3
設計:村野藤吾/村野・森建築事務所
竣工:昭和27年(1952)
施工:大成建設
構造:RC造、地上4階・地下1階
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タグ :旧東区
2012年04月19日
山内ビル
外壁はスペイン風褐色タイル貼り、一階東端(画像右側)の入口を花崗岩で縁取り二階の窓台装飾を垂らしてアーチの中心飾りとしています。一階中央及び西側にも同じデザインの窓を設け二・三階の縦長窓の縦枠を一階から連続させて縦の線を強調しています。
そして、コンクリートに備え付けた郵便受けがステキです。

今は、テナントとして里山カフェさんが一階に入っています。その上の階にも飲食店が入居してます。

平成12年(2000)に国の登録有形文化財に指定されています。
大阪府大阪市西区土佐堀1-1-4
竣工:昭和8年(1933)
設計:今北乙吉
施工:不明
構造:RC造4階・地下1階建
大阪の近代建築を訪ねてみたい人は、ぜひ下の地図を御利用下さい。
4946です。
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大阪府大阪市西区土佐堀1-1-4
竣工:昭和8年(1933)
設計:今北乙吉
施工:不明
構造:RC造4階・地下1階建
大阪の近代建築を訪ねてみたい人は、ぜひ下の地図を御利用下さい。
4946です。

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タグ :西区
2012年04月16日
鯛よし百番
木造2階建で、入母屋造、瓦葺、2階に擬宝珠高欄を廻らし、玄関に唐破風を付けているのも遊郭建築の特徴の一つと言えます。色街の殷賑を色濃く今に伝える、現在では非常に珍しい建物です。
平成12年(2000)に国の登録有形文化財に指定されています。
大阪府大阪市西成区山王3-5-25
設計:不明
施工:宮大工数名といわれる
竣工:1918
構造:木造2階建
飛田新地では興味本位で写真を撮ったり、カメラを持ってウロチョロするのは決してお薦めできません。
ヤメトコー!

タグ :西成区
2012年04月08日
浪花組本社ビル
モダニズムの巨匠・村野藤吾は、大阪・ミナミの本社ビルをはじめ、この会社の東京支店と名古屋支店も手掛けています。
入口も凝っていて、シャレオツに決めています。


テーマ、モチーフに多様性があり、それぞれに「新しい何か」を加えていくが、本来の世界観が頑ななほどに揺らぐことのない作品を次から次に生み出したというコトなんでしょう…たぶんソーいう意味なんでしょう。
大阪市中央区東心斎橋2-3-27
設計:村野藤吾/村野・森建築事務所
施工:不二建設
竣工:1964
構造:RC造、地上5階・地下1階・塔屋2階
村野藤吾建築マップを作りましたので下の地図を参考にして是非見に行ってみて下さい。
スゴイですよ…名前もスゴイよね。
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大阪市中央区東心斎橋2-3-27
設計:村野藤吾/村野・森建築事務所
施工:不二建設
竣工:1964
構造:RC造、地上5階・地下1階・塔屋2階
村野藤吾建築マップを作りましたので下の地図を参考にして是非見に行ってみて下さい。
スゴイですよ…名前もスゴイよね。

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タグ :旧南区
2012年02月27日
大阪の近代・現代建築マップ
今では無くなってしまったものも多いけれども、それでも船場や中之島にはレトロビルと呼ばれる様式が美しい建築が保存されていたり、今でも現役の古いビルディングが残り、キタやミナミの繁華街にもモダンと評されたスタイリッシュなビルがその存在感を示しています。
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上の「近代・現代建築案内」にドンドン書き加えていきますので、「より大きな地図」で見て下さい。


または、建築家を志して勉強しているけれども大阪で研究に値する建築物を実見したいが、それがドコにあるのか?

上記のような大阪で著名な建築家による有名な建物、歴史に鑑みてもその評価が高いものをお探しの皆様のために、この建築案内地図をGoogleマップで表しました。
上に作成した地図がその道標になれば幸いです。
最後に、この地図の内容はドンドン変わっていきますのでご注意ください。

最後に、この地図の内容はドンドン変わっていきますのでご注意ください。
地図上の建物が減ることはないけど、とにかくガンガン増えていきますので4946です。

2012年02月25日
村野・森建築事務所
どの作品も一貫して、事務所としての機能を十分に押さえた上で、飽くなきファサードの追求がされています。
正確には「旧村野・森建築事務所」(現在の所有者はこの建築事務所ではない)と呼ぶべきかもしれないこの建物は、村野藤吾が自ら設計し、昭和41年(1966)に竣工しました。
泉岡宗助と村野は、彼が昭和3年(1928)、阿倍野区阪南町の南大阪教会塔屋に携わったのが縁で出会ったと言われています。泉岡宗助という人は大変な資産家で、昔日本一大きい村が天王寺村だった頃にその村長に泉岡家が代々就いていたという家柄で宗助は子供の頃から英国人の家庭教師について勉強をしていて宗助自身はとてもハイカラで日本文化の粋を身につけたような人でした。
「一番最初はね、私の家の台所を改造して、そこで図面を引いていた。阿倍野の今の事務所の途中に泉岡宗助さんから借家していた所ですが、そこで、台所の所に増築して、塀の所まで庇をつけて、ある者は二階のベランダで西陽のあたる所でやってました。今でも、その当時の生き残りがいますがね、石原君とか近藤君とか、いま自分でやってますが…。そのように、(渡辺)先生に言われた通り金をかけないで、自分の家でやっていました。」
その後、村野の様子を見かねた泉岡宗助は自宅の一部を村野に提供し、それがこの村野・森建築事務所となります。
泉岡宗助の和風建築に対する造詣の深さは、並大抵のものではなく、道楽の極地から普請道楽をしていたと言われるほどの人物でした。
村野は後に、「自分は日本建築を正式に学んだ事はないが、村野流日本建築の糸口を与えてくれたのは泉岡宗助である。」と述べています。
大阪市阿倍野区阿倍野筋2-3-8
竣工:昭和41年(1966)
設計:村野藤吾
施工:鹿島建設
構造:RC造3階・地下1階建
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阿倍野の大資産家、当時の泉屋土地建物株式会社の代表取締役でもあった泉岡宗助は「百楽荘」という数寄屋造りの離れを奈良・富雄に建設しました。約8万坪(約26万㎡)の土地を購入し、数年かけて地形に合わせて造成されたそうです。
設計は泉岡自らが行い、当初は貸別荘として建てられました。
昭和33年(1958)、百楽荘は泉岡の会社から近畿日本鉄道のグループ会社に引き継がれ、現在は近鉄直営の料亭として営業しています。
大きな地図で見る
泉岡家の跡にはマンションが完成していますが、Googleマップのストリートビューで泉岡家の往年の姿を確認することができます。(平成24年(2002)2月24日現在)
建築についてと言うより、村野藤吾と泉岡宗助の歴史みたいな記事になってしまいました。
モダニズムの巨匠・村野藤吾の作品はこれからも折に触れ紹介できたらEかなと思っております。ソレはソーとして4946です。

記事中の説明(太字の部分)は、「村野藤吾建築案内」(村野藤吾研究会編/TOTO出版)を参考にしています。

タグ :阿倍野区
2012年02月17日
あべのハルカス-そびえ中
平成26年(2014)竣工、同年開業予定のこのビルは、地下から低層階には近鉄百貨店阿倍野店や近鉄阿部野橋駅、中層階はオフィスと美術館、そして高層階には大阪マリオット都ホテルや展望台などが入る予定で、まさに多彩な顔を持つ施設となるようです。また中層階のオフィスには、地元阿倍野区に本社を構えるシャープの営業・開発部門や同じく同区に本社を置く奥村組などが入居する見通しです。
現在クレーンのある最上部までの高さはだいたい200mほどでしょうか。
JR天王寺駅の東口より20mくらい東側の歩道から撮ってみました。

もっと東側の高い場所から撮ってみました。
すでに向かいの天王寺MIO(ミオ)の倍以上の高さ…お昼時にはミオが超高層建築の影に入ってしまうのでしょう。

画像の手前、下の方にチラッと見えるのがあべの&(アンド)とあべのHOOP(フープ)です。南東から見上げたそびえ中のあべのハルカスです。
それにしても阿倍野再開発エリアには「あべの」+「カタカナまたはアルファベット」表記による名称の施設が多いです。あべのベルタ、あべのポンテ、あべのルシアス、あべのmini、そして「あべのハルカス」…お前もか!
ビルの名前が正式に発表されるまでは、阿倍野ターミナルビルタワー館という仮称で工事が行われていました。

すでに取り壊されたかつての近鉄百貨店新館です。
それにしても阿倍野再開発エリアには「あべの」+「カタカナまたはアルファベット」表記による名称の施設が多いです。あべのベルタ、あべのポンテ、あべのルシアス、あべのmini、そして「あべのハルカス」…お前もか!

ビルの名前が正式に発表されるまでは、阿倍野ターミナルビルタワー館という仮称で工事が行われていました。

「空間の魔術師」と言われた村野藤吾の作品です。現存するものは少なくなりましたが、そごう大阪店、大丸神戸店をはじめ百貨店(デパート)も数多く手がけ、その評価は非常に高いものでした。
タグ :阿倍野区
2012年02月14日
南大阪教会
設計・監督は、当時まだ渡辺節建築事務所に在籍していた村野藤吾で、これが彼の処女作になります。
明治24年(1891)、佐賀県唐津市に生まれた村野藤吾は、大正7年(1918)に早稲田大学建築学科を卒業後、大阪の渡辺節建築事務所に入所し、活動の拠点を大阪に置きました。

旧礼拝堂(会堂)と塔屋(教会塔)は無事に戦火をくぐり抜けましたが、時間の経過とともに傷みが激しくなり、旧礼拝堂(会堂)を取り壊すことになりました。その際、村野は「私の長男」と呼んで強い愛着を示したというエピソードがあります。
そして昭和56年(1981)に新礼拝堂(会堂)が建築されましたが、こちらも当時90歳の村野の手によるもので、彼の宗教建築最後の作品となりました。
つまり南大阪教会は、村野藤吾の処女作である塔屋(教会塔)と最晩年の作品である新礼拝堂(改修)とが一望できる貴重な建築物であるということができます。

村野藤吾は、モダニズムの理念と方法から出発しながら、様式性や装飾美を湛えた独自のデザインを展開した建築家として知られ、「空間の魔術師」とも言われました。

ここでは敢て彼が携わったその代表作を紹介しませんが、そのうち村野作品を年代別にまとめたリンク集を作ります。
現存しないものも多いので(モチロン今でも現役のビルも多いけど)、それが残念です。

やっぱり、「いつか見よう…」とか「いつでも撮れるからまた今度…」とかはアカンわ。E建築に街で出会ったなら、その都度、キッチリ、ハッキリ、ゴッソリ撮っとかんとアカンわなー。カタチあるものはいつか無くなりますので…
いやー参りました。村野藤吾…最近ハマった人物です。
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いやー参りました。村野藤吾…最近ハマった人物です。

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タグ :阿倍野区
2012年02月03日
大阪市中央公会堂
大阪市中央公会堂(中央公会堂)
赤レンガが美しい中之島の中央公会堂は、北浜で株式仲買商を営んでいた岩本栄之助が大阪市に寄付した100万円を基金にして、指名設計競技に一等当選した建築家・岡田信一郎の設計案をもとに、辰野金吾と片岡安が中心となって実施設計を進め、5年5カ月の歳月をかけ、大正7年(1918)10月に竣工しました。
このモダン建築は、鉄骨煉瓦造、地上3階、地下1階の構造をもち、そこには、地上に1・2階の吹き抜けの大集会室、三階の中集会室、特別室(貴賓室)、小集会室などが配され、地階には開館当時からの食堂、会議室や展示室、そして岩本記念館が設けられています。
また中央公会堂は、ネオ・ルネサンス式とよばれる建築様式にバロック的な躍動感を加味した意匠で、壮大さの中に優雅さや華やかさ、やわらぎを表現してます。また日本における様式建築の習熟の過程をよく示しているとして、煉瓦を主体とした建築の到達点をかざる建築物の一つに数えられ高い評価を得ています。
平成14年(2002)、国(文化庁)の重要文化財に指定されています。
この画像では判別できませんが、左がメルキュール(英語:マーキュリー)、右が女神ミネルヴァ(ミネルバ)です。
モダンなシャンデリアや金箔に覆われた舞台縁、豪華なカーテンなど、細部に至るまで創建当時の姿にこだわった、重厚で荘厳な雰囲気を味うことができます。
和と洋を融合させた、今では再現が困難な当時の職人の技巧が施された部屋は、そのものが芸術品といわれています。
アーチ状の高い天井により、素晴らしい音響を可能にし、創建当時のまま残されている貴重なシャンデリアとステンドグラスが贅沢な空間を演出してます。
大阪市北区中之島1-1-27
竣工:大正7年(1918)
設計:辰野片岡建築事所
構造:鉄骨煉瓦造・地下1階、銅板葺、一部スレート葺煉瓦造2階建
今回は「大阪の観光ガイド」に欠かすことの出来ないチョー有名な、どんな本にも紹介される中之島の中央公会堂について書いてみました。

タグ :北区
2011年10月15日
北野家住宅
国の登録有形文化財にも指定されている北野家住宅は昭和3年(1928)、青果商だった北野栄太郎が建てた間口3間、木造3階建ての町屋です。かつて店舗を兼ねた1階は土間でしたが、現在は改築し床が張られています。2・3階は建築当時のままで、外壁はタイル張り、窓枠や各階につけられた庇の出桁まわりを銅版で覆っています。また、建物の左右から前に張り出したうだつを設けているのも特徴的です。
旧東区一帯は昭和20年(1945)の大阪大空襲で焦土と化します。平野町周辺も例外ではなく大半の建物が焼失した中、この住宅は奇跡的に残った町家として、様変わりした市の中心部で当時の大阪商人の暮らしぶりを今に伝えています。2階の押入れには屋根を突き破った焼夷弾(不発弾だった)に削り取られた内壁を補修した後が今も残っています。
上記説明文は、「中央区史跡文化事典」(大阪市中央区役所刊)を参考にしました。参考にしただけでパクッたわけではありません。

E建物ですね。御霊神社のすぐ近くにあります。大阪ガスビルも近所やし、ドーゾ見学に行ってみて下さい。

タグ :旧東区